「常識」と(いう語)は本来、
「文化」と同様に、つねに
「複数形」で語られるべき
ものである。ある種の人びと
とっての「常識」は、他の
人びとにとっては「非常識」
であって、その逆もまた真
である。すなわち一方にとっ
てみれば、他方の常識は
「とんでもない常識」であり
得る。人はこれを「常識の
相対主義」と呼ぶ。そして、
複数の異なる「常識」が、
互いに「とんでもないのは、
おたがいさまだ」と承認し
合い共存し合うのが市民
社会である。かたや暴君が
都民の名を騙って「良識」
を規格化し、常識が単数
化され、一方的に横領さ
れるとき、人はそれを、
独裁主義の社会とよぶ。
バカ騒ぎが許されるのは、テレビの中のヴァラエティ番組だけであり、テレビの外では、
テロ対策の名のもとに、「精神の戒厳令」が敷かれている。「笑うな、騒ぐな、立ち止まるな、
戸締り用心、テロ用心」。そんな時代の「市街劇」。そのとき街の常識は確実にノックされた。
少なくとも、高円寺駅南口18時45分発の「関東バス」の運転手がクラクションを鳴らすのも
忘れて立ち往生してしまう程度には。その瞬間、関東バスの運転手は、こう思ったはずだ。
「ここはいつだ?いまはどこだ?」。この日のベイビーQは、街に現れた「常識のエイリアン」
の役を見事に演じきっていたと思う。
[追記] 写真をみると、「ブレード・ランナー」みたいだ。。。