
本日発売の『美術手帖』06月号に、
このブログの一番古いログとして書いた
「殺すな博」についての特集記事があり、
そこにイルコモンズ名義で、
「追悼なき服喪と貧乏の叡智」という雑文と
「第〇九八三〇七番拾の組」という
愛知博来場予告メールアートを
寄稿しています。
限られた文字数と狭いスペースの中でこしらえたものなので、
ヌケてるところやトンでるところも、たくさんありますが、
同号所収の次のテキスト群とトラックバック・リーディングすると、
シナジー効果が発生して、いい具合にナニかがワカッテクル
はずですので、ぜひご一読ください。
↓
暮沢剛巳「ミューアムX 最終回・エキスポとミュージアム」
暮沢剛巳「アルテポーヴェラ/貧しい芸術」
椹木野衣「あほう!そんなことも知らないのかという電撃的なことば」
ちなみに、同号の中で「よみもの」としておもしろかったのは、
椹木野衣の「この絵の中では、なにか非日常的な物語が進行
している。それがなんなのかがわからない。けれども、たしかに
今ここで、それは起こっている。それは……」でした。
「大きな物語」の時代が終わって、「小さな物語」が氾濫し、
そして今度は「大きな物語」が「大きな物語もどき」として
厚顔無恥にリバイバルしてきている現在、アートの世界では、
「大きな物語の断片」と呼べるような独特の気分をもった絵画が
次第に流行しはじめている、という指摘もおもしろいのですが、
それよりも、その論の末尾に書きつけられた、もうひとつの
「ものがたりのあらわれ」の予感の方に目がとまりました。

「大きかったり小さかったりせず、
断片であるとも全体であるともいえ、
だれのものともいえないようななにか」
としての不定形な「それ」がアンキャニーに
息をふきかえしてくる、そんな予感がします。
ただし、僕が待望しているのは、
「だれのものともいえないようななにか」ではなく、
「だれのものでもあるようななにか」であり、
「だれのなかにでもあるイルでコモンな原質」
なのですが...それについてはまたいずれ...