【暴衛省(原文ママ)長官の核投下容認発言に抗議して再掲載】
「イルコモンズアース~GoogleEarthムービーのための習作」
監督=イルコモンズ 主演=ちびこもんず、ままこもんず
(0分38秒 モノクロ 2007年)
自分が「されたくない」と思うことは他人も同じだと思う。たとえ地球の裏側であれ、
60年前の過去のことであれ、人間として「されたくない」と思うことは同じだと思う。
そういう「されたくないこと」のひとつが、自分が生まれ育った場所や自分の家族の
頭の上に爆弾を落とされるということで、どんな理屈をつけられても、これだけは、
「しょうがない」とは絶対に思うことができない。ヒロシマとナガサキに生まれたの
でもなく、また親類縁者がいなくとも、それが「されたくないこと」だったというのは、
こどもだって想像できるし、こどもの方がずっと想像できる。今回の暴衛省長官の
「しょうがない」という発言に何も云わないでいるということは、この「されたくない
ことをされてもしょうがない」と容認し、いつか自分が「されてもしょうがない」と
あきらめることだと思う。それは嫌だ。自分が「されたくないこと」は、どの時代の
どの土地の人間にとっても同じはずなので、それには断固、反対するし、抗議も
する。いかにも幼稚で素朴な考えかもしれないが、これが核兵器と戦争に反対
する(シンプルだけどもシンプルであるがゆえにゆるぎない)根拠である。そして、
この「されたくないこと」には人種も国境も性別も年齢もないと思うので、地球の
表であろうと裏であろうと核兵器に反対する。かつてドゥルーズは、地球の裏側
で起きたことを、まるで自分の足もとで起こったことのように感じることのできる
感性をさして、それを「左翼的なもの」であると書いたが、それではまだ足りない。
たとえ、それが過去であろうと、やがて到来する未来であろうと、それが、もし、
いま、自分の身に起こったら...と想像することのできる想像力、それを「左派的
なもの」とよんでみたい。要するに、ここでいう「左派的なもの」とは、政治的な
思想や活動のことではなく、想像力のはたらかせかたのことである。