はじめに、ふた、ありき
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『帝国』はネグリとハートが協働して
4本の手で書いたものですが、 この本の一番最後に置かれた アッシジのフランチェスカの挿話と、 「ミラノの奇蹟」に言及しながら綴ら れた「貧者」についてのくだりは、 おそらくネグリの左手が書いたもの だと思います。ネグリはこう書いてます。 「歴史のあらゆる時代にいつも存在し、 どこにあっても、同じようなものとみなされる 社会的主体がいる。[…] 地域を限定できない、 ただひとつきりの名前、あらゆる時代において 純粋な差異をしめす、そのコモン・ネームは、 貧しき者という名前である。[…] 貧しき者は、 困窮し、排除され、抑圧され、搾取されるが、 それでもなお生きている! それは生の共通 分母であり、マルチチュードの土台をなすもの である。[…] ある見方をすれば、貧しき者とは、 永遠のポストモダン的人物像である。それは、 横断的で、偏在的で、多様な差異をもった、 移動する主体である。[…] 貧しき者は、 この世の中にただ存在するだけではない。 貧しき者それ自身がこの世界の可能性なの である。貧しき者の存在のもとに、世界という この場所、この唯一無比の場所が、(人の生の) 内在性平面として指し示され、確信され、 強化され、そして、開かれるのである。 実に貧しき者とは地上の神である。[…] なぜポストモダニストたちにはそれが読み 取れないのか。[…] 横断性をつくりだしている 主体は誰なのか?誰がことばにクリエィテイヴな 意味を与えているのか?従属化しながらも欲望する ことをやめず、困窮しながらもたくましく、つねに 誰よりも力にあふれた貧しき者でなければ、 一体ほかに誰だというのだろう。[…] 貧困は力なり。[…] マルクス主義的伝統の 支配的な一派は、貧しき者たちを嫌悪していた。 それはまさに彼らが"鳥のように自由"であった からで、社会主義の建設に必要なディシプリンを まぬがれていたからにほかならない」。 そして、さらにこう続きます。 「考えてもみたまえ、1950年代のはじめ、 ヴィットリオ・デ・シーカとチェザ-レ・ザバティーニが 『ミラノの奇蹟』という、すばらしい映画のラストで、 貧しき者たちがほうきにまたがって空を飛んでゆく シーンを描いたとき、社会主義リアリズムの代弁者から、 「ユートピア思想だ」と、どれほどこっぴどく こきおろされたことか。[…] だが、ポストモダンの 中心にそれは再び現れた。目もくらむような 白昼の澄みきった陽光のもと、貧しき者という コモンネームが、すなわち、マルチチュードが 現れたのである。[…] かくして、貧しき者は かつてないほど尊いものとなった。 貧しき者の生/暮らしがこの惑星をおおい、 その創造性と自由への欲望がこの地球を つつみこむのである」[…] そしてこの後に「チャップリンのモダンタイムズ」に ついての言及などもあるのですが、長くなるので、 それはカットします。『ミラノの奇蹟』には他にも いくつか印象的なシークエンスがあって、 中でも特に、自然が与えるコモンである太陽の 熱や光を共に分かちあい、文化が与えるコモン である"ことば"や"うた"を贈り合うシーンは、 コモンのみならず、日々の暮らしのなかでの ギフト・エコノミーの所在を教えてくれるものですが、 それはさておき、気になるのは、ネグリが物語る 「マルチチュードとしての貧しき者」の原風景は いったい何なのか、ということで、もしや、この 『ミラノの奇蹟』がそれじゃないのだろうか、と そんな気がしたので、「ハズれてもともと、 あたれば勿怪の幸い」というくらいの気持ちで、 例の質問をぶつけてみたワケです。では、 はたしてネグリの回答はどうだったのか。 この「おはなし」のつづきはまた次回に(つづく)。 【第三話へ】
by illcommonz
| 2005-05-18 23:43
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