はじめに、ふた、ありき
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▼「作家の小田実さんが死去 国際的な反戦運動に尽力」
反戦、反核など国際的な市民運動に取り組んだ作家で、「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」元代表の小田実(おだ・まこと)さんが30日午前2時5分、胃がんのため東京都内の病院で死去した。75歳だった。自宅は公表していない。32年大阪市生まれ。45年の敗戦前日の8月14日に大阪大空襲を体験、そこで目の当たりにして後に「難死」と呼んだ「無意味な死」への怒りが言論活動や市民運動の源泉となった。65年、ベトナム戦争に反対して哲学者の鶴見俊輔さん、作家の開高健さんらとベ平連を結成。米ワシントン・ポスト紙に日本語で「殺すな」と大書きした反戦広告を掲載するなど、運動の支柱となった。(「アサヒコム」2007年7月30日) 2003年の春、米英軍のイラク攻撃に抗議して「殺すな」(後に「殺す・な」と改名)を立ちあげたとき、その精神的支柱になったのは、べ平連からの依頼で岡本太郎が書き、1967年に「ワシントンポスト」紙に掲載された「殺すな」の文字だった。これについては椹木野衣との共著「殺すなからはじめよ」(「別冊文藝」2003年)と「見よ、僕ら四人称複数イルコモンズのふた、改メ、殺すなの旗」(「現代思想」2003年)などに詳しく書いたので、省略するが、その「殺すな」を立ちあげるときに読んだのが、小田実の「「殺すな」から」だった。なかでも特に、これから引用する文は、2003年の「殺すな」からはじまって、現在にいたるまでの、イルコモンズとしての様々な抵抗の表現や反グローバリズムの講義/抗議活動などに大きな影響を与えていると思う(例えば「T.C.D.C.」や「前衛詩としての第9条」「SOMEDAY OVER THE WINDOW」そして「文化人類学解放講座」や「イルコモンズ。アカデミー」にも)。矛盾をおそれぬこと、常に行為の現場とせめぎあいの表現を選びとろうとすることなどがそれだ。だから、ここでも、冥福など祈らないし、もちろん「しょうがない」とあきらめたりもしない。それは精神的な無抵抗だと思うからだ。それよりも「作家は死んだが、それがどうした、書いたものはいまでも読めるし、読めなければ、ここに書きとるまでのことだ。作家は死んでも、「殺すな」は死なない」と考え、そうすることにした。姓こそ同じだが、故人とは何の縁もないし、会ったことすらない。でも、せめて、そのくらいのことをしないとバチがあたるくらいには恩義を感じている。だから、祈るな、書け、書けなきゃ、書きうつせ、である。ということで、引用開始。 ............................................................................................... 「もうひとつ大事なことを云っておきたい。それは「殺すな」が「殺せ」を前提として存在する原理である以上、そして「殺せ」が積極的な行為である以上、「殺すな」もまた「殺せ」にまっこうから対立し、それを押しつぶそうとする積極的な行為であるということだ。逆に積極的な行為を前提としない「殺すな」は原理として成り立ち得ないし、それほどの力をもって「殺せ」とせめぎあわない「殺すな」は「死ぬな」であり得ても「殺すな」ではない。「殺すな」が「死ぬな」とはちがった次元に立つ原理であることは云うまでもないだろう。 「殺すな」が「殺せ」と積極的にせめぎあう行為の原理であるのに対して、「死ぬな」は「死ぬ」という人間の不可避的な運命に積極的にせめぎあうことのない祈りであり、より適切にはあきらめなのにちがいない。「殺すな」が「殺せ」と行為の現場でせめぎあわないかぎり、それは「殺すな」ではすでにないことだ。あり得るのは、ただの「非暴力的無抵抗」であり、「非暴力的無行動」だろう。戦後の三〇年間における私たちの「殺すな」の歴史のなかであきらかに認められるのはこうしたことのありようだが、このありようは「平和」と「反戦」がただの祈りの対象となりはててしまったことと無関係ではないし、祈りはあきらめをひきずって歩く。 もう一度、云っておきたい。「殺すな」が「殺せ」に対する「非暴力無抵抗」「非暴力無行動」になり下がったとき「殺せ」は「無制限暴力行動」に自分を強め、ひろげる。これもまた自明のことだ。 もうひとつ大事なことがある。それは「殺すな」がつながる「平等」と「自決」は、自分の国のなかだけにかぎられたことではないということだ。「平等」と「自決」は国のうちそとにひろがる。」 小田実「「殺すな」から」(1976年) --------------------------------------------------------------------- [追記] 作家はこうも書いている。 「私は「世直し」ということがらを「殺すな」の原理がまっすぐつながって行くものと考えることができる。「世直しの倫理と論理」という本を書いたとき、私はまだ十分にそこのところまで踏み込んで考えていなかったと思う。「世直し」の目的ははっきりしていた。それは「平等」と「自決」を求める人びとの動きだが、そのことと「殺すな」との原理的なかかわりあいをはっきりとつかみとっていなかったにちがいない」 それから三〇年後、高円寺の「素人の乱」が「世直し一揆」として起こした「高円寺一揆」は、 「格差の破壊」と「自治の獲得」をめざしたもので、それは、「平等」と「自決」を求める人びと の動きだったが、そのせめぎあいの場で、ECDのラップにのせて、「殺すな」のコール& レスポンスが鳴り響いていたことを、作家は知っていたのだろうか。
by illcommonz
| 2007-07-30 06:04
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