![]() はじめに、ふた、ありき
以前の記事
2019年 09月2018年 07月 2018年 05月 2017年 11月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 その他のジャンル
記事ランキング
|
![]() 「博多には、安泰を祈る縁起かつぎやしきたりが今も息づいている。その中で育った博多っ子は、あけっぴろげで、人が好く、少しばかり大仰で、祭り好き。 粒あんをフレッシュバターでくるんだ粋な味、伝統に生きる銘菓、博多山笠、山笠があるけん博多たい!」 人類学者なら「他者からのオリエンタリズム的イメージの内面化」というかもしれないが、福岡の原住民としては、これはかなりあたってるのではないかと思う。もちろん、こういう「県民性」などというものは「文化とパーソナリティ論」と共に半世紀以上もも前に死滅したものだが、東京で暮らしていると、どうもそういうものがあるように思えてしまう。慶田氏なら「物象化」というだろう。たしかにそうだろうと思う。しかし、ここでもまた、反省せずに云えば、これはパタンではなく、ロマンである。つまり、こういうふうに生きたい、こういうふうにありたいというロマンであり、「失われたもの」というフィクションのもとに、つねにとりもどしたいと思うロマンであり、ポエジーである。ヴォネガットがそう証言していたように、かつての文化人類学は「科学のふりをした詩のような学問」であった。これもまたロマンかもしれないが、福岡人として云わせてもらえば、それでも「よかよか」である。そういう人類学があってもいいはずだ。博多もんのように、あけっぴろげで、人が好く、少しばかり大仰で、祭り好きな人類学があってもいいはずだ。寺山修司の詩にこういうのがある。 「私が書く詩の中には、いつも汽車が走っている。だが私はその汽車に乗ったことがない」 これをもじって云えば、 ![]() いつも山笠が走っている。 だが、その山笠をかついだことはない。 でも、かついでみたいといつも思っている」。 と、これまた大仰な話ではあるが、 あははのは、まぁ、よかよか。である。 [追記1] 福岡のこの「よかよか。」ということばが持つ、ほとんど無条件的な肯定性と赦し、そしてそれが与える解放性は他の地方のことばには翻訳不能であるらしい(いちばん近いのは、ボブ・マーリーのうたにある「Everything gonna be alright」かもしれない)。もっとも、「よかよか」とはいっても、PC(ポリティカルコレクト)的に云えば、「政治的にただしくないこと」ですら「よかよか。」と云ってしまうのは、かなり問題だと思うが、しかし、この「よかよか。」にこれまでどれだけ救われてきたことか、と思うと、あたまごなしに否定もできず、ついついまた「よかよか」と云ってしまいたくなるという罠。イルコモンズがよく書く、「あははのは」とは、実は「よかよか」の枕詞であり、そこには「よかよか。」とまでは云わないが、「よかよか。」と云う心の準備がある、というニュアンスがこめられていることは、あまり知られていない、というか、自分でも、いま気がついた。 [追記2] もうひとつ云うと、福岡には「だいたいくさ、」ということばがある。この言葉が人の口から出たときは「やばい、これは、ただではすまないぞ」と覚悟をきめたほうがよい。これは、ものごとをその根本や原則、あるいはその発端やはじまりまでさかのぼって、そこからラディカルに反撃をしかけてゆくときの合図である。なにしろ、それまで「よかよか」だったものが、そこで一気に反転するのだから、これはおそろしい。しかも、この「だいたいくさ、」がはじまると、もうとまらない。それまで「よかよか。」といいながら、ぐっとためこんでいたエネルギーがそこで一気に爆発するのだから、たいへんである。山笠のように突っ走る。だから、この言葉をきくと、たいていの福岡人はびびる。イルコモンズもびびる(しかしそれは福岡人の得意技でもある)。この「よかよか。」と「だいたいくさ、」の弁証法的なダイナミクスについては、ぜひ身のまわりにいる福岡人(あるいは福岡族)にきいていただきたい。
by illcommonz
| 2007-10-14 21:52
| |||||||
ファン申請 |
||