
昨晩のイルコモンズ・レイトショーで「無買日 京都2007」をみながら、そこに登場するサンタたちをみていて、ふと想いだしたこと。
「おそらく私たちはサンタクロースの話を完全に共有することはできないだろう。にもかかわらず私たちは、この話を守ろうとする努力をやめない。いったい何のためにだろうか? おそらくそれは、この話が他の人びとの心のなかで守られ、それが子どもたちの幼い魂に火を灯し、そして、その炎によって私たち自身の身体までもが温められる、そんなチャンスを私たちが失いたくないからだろう。子どもたちがサンタクロースの存在を信じてくれるならば、私たち自身もまた、「生の意味」が信じられるようになるだろう、という期待が、そこに込められているのだ。」(レヴィ=ストロース「火あぶりにされたサンタクロース」より *左の写真はパレスチナの丘に立つサンタクロース)
レヴィ=ストロースの書くものは、「悲しき熱帯」をのぞけば、たいていどれも理屈が勝ちすぎていて、あまり好きではないのだけど、このエッセイは「あー、なるほど、そうだなぁ」と思うし、サンタクロースの話にかぎらず、大人になっても童話や昔話をよむのをやめられない理由はまさにそれで、つまり、絵本や童話というメディアを通じた目にみえない「生の意味の共有とその交換の経済」があるからだと思う。