「現代思想」ネグリ特集号の座談会原稿を脱稿。イルコモンズに無断で一部転載。
小田:映画「ミラノの奇蹟」には、今回のラウンドテーブルのテーマである「貧」「戦」「共」のすべてがそろっています。さらに云えば、「生権力」や「エクソダス」を思わせるシーンもあります。でも、なにより素晴らしいのは、「貧しき者」たちが雲の切れ間から射しこんでくる一筋の太陽の光と熱を互いに体を寄せ合って「共」に分かち合う場面です。これは映画史に残る素晴らしい「共」のシーンだと思います。この美しい映画をネグリとそこに集まった人たちと「共」に分かち合いたかった。ネグリがどんな表情でその映画を見るのか、そばで見てみたかったし、見終わった後にネグリがどんな話をしはじめるのか、そばで聞いてみたかった。なにより「共」がつくりだす情動にふれてみたかったのです。僕は映画を愛する人間です。映画のいいところは「共」の体験ができるところです。映画は、大勢の人たちと一緒にみんなで観ることができるものです。パソコンや携帯電話はたいてい独りで見ます。皮肉なことに、いま僕らは、こうしたネットワークの道具によってますます分断された孤独な生を生きさせられています。テクノロジーの監獄の独居房の中で暮らしています。最近は映画も、DVDやネットで独りで見るものになりつつありますが、もともと映画というのは、映画館で誰かと「共」に見るものでした。見知らぬ人たちと一緒に、同じ時間に同じ場所に集まって同じスクリーンから同じ光を浴びるのが映画です。そういう意味で、映画は「共」を体験する場なのです。ネグリの云う「共」は視覚化しにくいものです。ことばで伝えるのが難しいものです。なぜなら「共」は「共になる」体験やその実践のなかに立ち現れ、音や熱や肉を通じて感受される経験だからです。なので昨日は、まずはじめに「ネグリが愛した映画」をみんなで「共」に観ることからはじめ、いま失われつつある「共」の場をもう一度とりもどしたいと、そう思ったわけです。」(つづく)