
「その話しぶりじゃ、まるで資本主義は道徳的でなければならない、とでも云いたげだね。でも、なぜだい?資本主義はそれ固有の論理に従うだけだよ。君はいろんなことについてけしからんと云う。たしかに、けしからんことだけど、それは、資本主義の外に立って云ってるだけだ。資本主義が狂ってるということは確かだけど、資本主義の方じゃ、そんなことちっとも気にしてないのさ。資本主義にとっては、自分がちゃんと作動してさえすればそれでいいのさ。そして現実にそれは作動している。君の言うことは道徳的にはただしい。君は資本主義の動きに倫理性が欠けるのを資本主義の悪だと云う。しかし、資本主義の方ではきっとこう答えるだろうね。「剰余価値には関心があるが、あとのことは知らん」とね。どうやらこういう冷笑的な態度が君にはショックらしい。だが、資本主義の問題は資本主義の内部で問われるべきだ。そのうえで今日、資本主義の代わりに何が可能なのかを考えるべきだ。君は云うかもしれない。市場の論理と資本主義は区別するべきだと。僕は経済学者ではないから、うまくは答えられないが、個人的には市民として「市場がすべて」という法則が人間活動の全領域を支配しないように戦っている。地球全体がスーパーマーケットになってはかなわないからね。国家や文化や教育の問題は、需要と供給の法則などからは切り離されるべきだ。誰がいちばん支払い能力があるかの問題ではない。僕のこの戦いは反資本主義的かもしれないけど、しかし資本主義を道徳化しようとする人たちには驚いてしまう。資本主義にはもともと野蛮なものだよ。その野蛮さの根底を突くべきなんだ。もちろん問題は残る。つまり、市場にかわるものがあるだろうか、という問題だ。(ジャン・ジーグラー+レジス・ドブレ「かくもグローバルでない村、地球」1994年)
(「文化人類学解放講座」単元集より)