
いま、
ともだちのデザイナーのうちのベランダには、こんなふうに旗がだしてある。南西の方角を向いたパラボラ・アンテナの、そのはるか遠くかなたある衛星から日々届いてくる、海外からのさまざまなニュースに対する受けこたえとして、その旗がそこにあるようにみえる。どんなに離れていても、やはり世界はつながっている。たとえ地つづきでなくても、アンテナやネットケーブルで、世界は幾重にもつながっている。ものをつくる仕事なら、どの仕事だってそうかもしれないが、デザイナーは、自分のデザインしたものが、いつか自分の知らないどこかで誰かの目にふれ手にとられることを想いながら仕事をする。これまで自分が行ったこともなければ、またこれから先行くこともない、そのどこかにいる、これまで会ったこともなければ、また出会うこともない、その誰かへの想像力をもって表現するのだが、その想像力と表現は、こんなふうに仕事以外のところでも発揮されるようだ。いっぽう、ともだちのカリブ研究者は、勤め先の大学の講義で、「THE OTHER MUSIC FOR PALESTINIAN CHILDREN」のDVDを上映してくれた。なんの授業かは聞きそこねたが、それが人文系の講義である限り、そして人間についての学問である限り、なんのさしつかえもないだろう。いま地域や人種をこえて、人間の道義性が問われているのだから、それに対して受けこたえをしない人文科学とはいったいなんだろう。学際的というのはそういうことであり、大学とはそういう場所だ。さて、では、自分はどこに旗をだし、そして、どこで、だれにDVDをみせよう。と、わざわざ問うまでもなく、もうとっくに決めてある。はじめから決めてある。今日は
「文化人類学解放講座」の最終講義の日である。釈放された日に立ったあの教壇のうしろのスクリーンに、はぎれを縫いあわせ、ほころびや焦げ跡をつくろった、大・中・小の「赤と黒と緑と白の抵抗の旗」を吊り下げ、その決して大きくはないスクリーンいっぱいに「THE OTHER MUSIC FOR PALESTINIAN CHILDREN」を映そうと思う。この一年かけて抵抗やデモや人権、そして人間にについて話してきたことが無にならないように、世界によってそれが変えられてしまわぬように。