![]() はじめに、ふた、ありき
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![]() 「破壊的性向は「場所を空けろ!」というひとつのスローガンと、「かたづけてしまう」というひとつの活動しか知らない。破壊的性向は、いかなるヴィジョンももってない。破壊的性向には、欲望というものがほとんどなく、破壊されたもののかわりに、なにが現れるかなど知ったことではないのだ。これまで物があった場所に、ほんの一瞬だけ、何もない空っぽの空間が出現する。その空間を占有することなく、うまく使いこなせる者がきっと見つかるはずだ。」 (ヴァルター・ベンヤミン「破壊的性向」*抜粋) 「ブエノスアイレスの重たい灰色の空の下からあがった「ひとり残らずみんな出てゆけ」のコールには、「場所を空けろ」と「かたづけてしまう」がこだまとなって響いていたのだと思う」。こないだの「ないかくだとう」集会でベンヤミンを引用してみせた山崎カヲルのあとに、アルゼンチン革命の映像を上映しながら、そんなことを話した。ベンヤミンのこのテキストは、2003年の路上解放サウンドデモのときに何度も参照したもので、これからまた何かがはじまるような、そんな予感がした。破壊的性向は、ある特定の誰かや民族や階級のものではなく、誰のなかにでもあるが、ふだんは眠りこまされている、人類に共通・共有の感覚だと思う。それは、狂えば狂うほど調子がよくなる、扱いにこまる性向だが、いつの時代も、そうした性向にめざめた人びとが歴史を動かしてきた。そのマヒした感覚をよびもどし、たとえ一時間でもそれが路上で解放され、100人に共有されたら、もうそれで十分で、後は知らない。デモはうるさい目覚まし時計のようなもので、「起きよ、目覚めよ、時間だ!」とデモが街をノックしてまわれば、「うるさい、だまれ」という反応もふくめ、後は放っておいても、そこから次の何かがはじまる(もちろん目を覚まさずに歴史に遅刻してくる人たちもいる)。 ブエノスアイレスの革命の最後は、こういうコールで終わっていたという。「わたしたちはまたもどってくる」。そう告げていたのは、実は民衆ではなく、破壊的性向そのものではなかったのだろうか。人間の破壊的性向はどこにもないが・どこにでもあり、思いがけないときにそれは回帰してくる、誰にでも、誰のなかにでも、突然、それはもどってくる。たとえばそれは3月6日とか、そういうなんでもない日の午後に。 「破壊的性向」についてベンヤミンはさらにこんなふうに書いている。 「破壊的性向は、若くて晴れやかだ。壊すことが、僕らの年齢の痕跡まで消し去ってしまうので、ひとを若返らせる。またそれは人を晴れやかにもする。破壊的性向は、いつも新鮮さを保っている。その行動のテンポを決めているのは、自然のなりゆきである。なぜなら自然のなりゆきよりも、先回りして事を行わなければならないからで、さもないと、自然のなりゆきが破壊を自分の手で引き受けてしまうからだ。破壊的性向は、なすべきことを行うが、ただし独創的なことは避ける。クリエイターが孤独を求めるのに対して、破壊者はいつもまわりにその目撃者となる人びとがいることを求める。破壊的性向は、理解されることにはまったく関心をもたない。誤解は破壊者に何の害ももたらさず、逆に破壊者は誤解を挑発する。伝統主義者のなかには、ものごとを人の手にふれさせないよう、かたい缶のなかにおしこんで手渡す者と、状況を人の手にとらえやすく流動的なものにして手渡す者たちがいる。この後者が、破壊的と呼ばれる人たちである。破壊的性向は、歴史的な人間という意識をもっている。歴史的な人間の基本的な考えは、事物のなりゆき対する不信感であり、なにもかもだめになるかもしれない、ということに絶えず気をくばっている。だからこそ、破壊的性向はほかの誰より信頼が置けるのだ。破壊的性向は、あらゆることを持続的なものと考えないので、いたるところに別の道をみつけだす。ほかの人びとが壁や山につきあたることろに、道をみつけだす。いたるところに道をみつけだすので、いたるところで、道のうえにある邪魔物をかたづけなければならなくなるわけだ。といっても暴力をふるうわけではなく、洗練された力を使う。また、いたるところに道がみえるので、いつも道の分かれ目に立っている。どんな瞬間でも、次の瞬間になにが起きるか分からない。破壊的性向は、既成のものをお払い箱にしてしまうが、その目的は廃棄ではなく、廃棄したもののあいだをぬう道なのだ。」(ヴァルター・ベンヤミン「破壊的性向」*抜粋) ベンヤミンを参照する学者は多いが、破壊的性向をもった学者はすくない。 [ふろく] 「民主主義のローセオリー」 ![]()
by illcommonz
| 2009-03-06 19:12
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