
エコ・エコ・エコ・エコ・エコ・エコ…と、まるで呪文かカエルの鳴き声のように、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、「エコの大号令」と、それに従順に応える「エコの大合唱」が世間にこだましている。「消費から倹約へ」という、この「転向」それ自体は善いことだと思うが、「優等生的で模範的なものは苦手だ…」というイルコモンズのような困った人は、たとえば「ドゥルーズの動物論」を参考に、「資源の節約」ではなく、「世界の縮減」を考えてみてはどうだろう。つまり、ダニの「環境世界」のように、本質的に「貧しい世界」の中で充足しきって生きる「動物になること」を考えてみるのはどうだろうか。さしあたりまずそれは、「衣・食・住の縮減」、そして、この時代においては、「移動と情報と通信の縮減」ということになるだろう。「~なしですませる」そのスタイルから、ドゥルーズが云うような芸術が誕生するかもしれないし、その芸術は資本や権力に飼いならされない、たくましいものになると思う。
▼「ドゥルーズ の Abecedaire 動物のA」(ドゥルーズの哲学 好々爺口調シリーズ)




▼[YouTube版] ドゥルーズの Abecedaire - Animal(動物)の A [1/5]
この続きは下記の「ニコニコ動画版」で。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1617721
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1643104
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1675109
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1680401
[補説]「ドゥルーズはユクスキュルの本の中に登場するダニの生態を引き合いに出す。ダニは光と体温と触覚という3つの感覚だけを頼りに生きている。ダニは光感覚を使って適当な高さの枝先に登り、そこで真下を動物が通るまで何年でも待ち続ける。下を動物が通ろうとすると、ダニは鋭い温度感覚によって動物の存在に反応し、その上に素早く飛び降りる。そして触覚を利用し、体毛の少ない場所を探り当て、動物の皮膚の中に頭ごと突っ込むと、その血液をたっぷりと吸い込むのである。血液を十分に吸い込んだダニは地面に落ち、卵を産んだ後、死を迎える。ドゥルーズは、全的な知覚を有しているという幻想を持つ人間に比べて、ダニが持つ限定的な知覚のあり方を賞賛している。人間であるという全的な幻想を捨てて、「動物になる」(=哲学者になる)ということは、自身が限定された知覚の只中に於いてあるということを引き受けつつ、もう一度生を生き直すということである。」(上田和彦「ジル・ドゥルーズによるアベセデールA,B,C,I」より)
http://d.hatena.ne.jp/uedakazuhiko/20071022/p1

[参考文献]
ヤーコプ・フォン・ユクスキュル
「生物から見た世界」