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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼「アナーキスト・ドラム・ギャザリング」
▼「アナーキスト・ドラム・ギャザリング」_d0017381_2363414.jpg
▼「アナーキスト・ドラム・ギャザリング」広報ポスター

今週末、東京外国大学で「カルチュラル・タイフーン2009」がひらかれます。パフォーマンス部門のテーマは「群れる」なので、「アナーキストドラムギャザリング」をやったり、ラジオにでたり、ライヴをします。

▼カルチュラル・タイフーン2009
http://www.cultural-typhoon.org/2009/jp/top/

「今回は展示やパフォーマンス等々が行われる空間を、「群れる」というテーマのもとに同会場にて開催されるシネマ・タイフーン2009とも連動させることを目指しています。空間には展示や露店の「群れ」、それらに集まるヒトの「群れ」ができます。展示やパフォーマンスの観客、さらにそれらを実践する人々同士の間でも、その「群れ」でさまざまな交流が行われ、そこから新たな表現や思考のスタイルが生まれる可能性もあるのではないかと考えています。参加者の各々が各自やりたいことを行いながら、「群れる」ことを実践していってくれることを期待しています。」

▼「アナーキスト・ドラム・ギャザリング」_d0017381_23114578.jpg
「群れる SWARM 大学にひきこもる研究者、表現の機会を奪われたアーティスト、市民たち。閉じた空間でバラバラに生きている私たちは、互いに互いを理解し合う機会を失ってしまっている。「群れる」ことは、閉じた空間と時間をひとつにし、他者を知り、互いに理解し合うという、いま失われている「関係をつくる」ことにつながるのです。」

▼「アナーキスト・ドラム・ギャザリング」
[日時] 2009年7月5日(日)14:00-15:40 (100min)
[場所] 東京外国語大学研究講義棟1階111教室
[ファシリテーター] イルコモンズ
*参加無料 *ドラムや楽器の持ち込み歓迎
*このワークショップには政治的内容がふくまれています。
「シアトル以後の「新しいアナーキズム」(デヴィッド・グレーバー)の「複数の特徴」である「非暴力、協働、戦術の多様性、予示的政治、コモンズ、ブロックシステム、合意形成、直接民主主義」などを、ドラムサークルを通じて体験するワークショップ。資本主義によって分断され統治されつつあるコモンズとユニティをとりもどすための「社会彫刻」の創造。「群れ」のメディアとしての「ドラムサークル」の提示。」

▼フリー・メディア・リサーチ・ラジオ「イルコモンズ・インタビュー
文化、アート、アクティビズムとG8」
[日時] 2009年7月5日(日)13:00-13:30
[場所] 東京外国語大学
[周波数] 88.0MHz

▼ウラン・ア・ゲル+T.C.D.C.+Xライヴ
[日時] 2009年7月5日(日)15:40-16:20 (40min)
[場所] 東京外国語大学研究講義棟前野外ステージ

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[アナーキスト・ドラムギャザリングのためのテキスト]

▼叫びと群れ

▼「アナーキスト・ドラム・ギャザリング」_d0017381_2374660.jpg
「はじめに叫びがある。わたしたちは叫ぶ。」

わたしたちが何かを書くとき、あるいはわたしたちが何かを読むとき、
はじめにあるのが言葉ではなく、叫びであることは忘れられがちです。

資本主義によって人間の生活が引き裂かれる事態に直面したとき、
口をついて出てくるのは「NO!」という悲しみの叫び、恐怖の叫び、
怒りの叫び、拒絶の叫びです。しかし、その怒りを表現しようとすると、
私たちはたくさんの非常にもっともらしい反論に出くわします。
わたしたちをみて、なぜ叫ぶのか、とたずねてくるのです。

「君たちがそんなに否定的になるのは歳のせいじゃないのか?」
「お腹がすいてるのかい?」「睡眠不足かい?」
「世界の複雑さが分かってないんじゃないか?」
「根本的な変革を実現することが現実には
 難しいことが分かってないんじゃないか?」
「叫ぶことが非科学的だということを知らないのかい?」

そして、「社会を研究してみたらどうかね?」
「社会理論や政治理論を学んでみたらどうだい?」

と熱心に勧められます。
そうすると、変なことが起こります。
わたしたちが社会を研究すればするほど、
わたしたちの否定的な気持ちは、そこから追い出されてゆき、
的外れなものとして閉め出されてゆくのです。
学問的な話のなかには叫びなんかが入る余地などありはしないのです。

それだけではありません。
学問的な研究によって身についた言葉づかいや考え方は、
わたしたちの叫びを言いあらわすことを、ほとんど不可能にさせるものなのです。
ともかく、叫びというものがあるとしたなら、
学問において、それは表明されるものではなくて、
説明されるべきものとしてとらえられるのです。
叫びは、わたしたちの社会に対する疑問から、
分析の対象に変えられてしまうのです。
「わたしたちが叫ぶのは、どうしてなのか? いや、わたしたちはもう学者なのだから、
彼らが叫ぶのはどうしたなのかと問わなければならないのだ。
社会的反抗や不満はどのように説明したらいいのだろうか?」と。
叫びは、システム全体のなかにうまく収まらないものとみなされて、
その社会的背景のなかに溶けこまされてしまうのです。

「叫んだりするのは幼児体験のせいである」
あるいは「近代的な主体概念のせいである」
「不健康な食生活のせいだ」
「家族構造が弱体化したせいである」

叫びがまったく否定されるわけではありませんが、
しかし叫びからあらゆる正当性が奪われてしまうのです。
叫ぶことは学問的な方法から排除されてしまうのです。
社会科学者になると、物事を理解するための方法とは客観性を追及することであり、
自分自身の感情をさしはさんではいけないと教えられます。
何を学ぶかよりは、むしろいかに学ぶかが、わたしたちの叫びを
おしとどめているように思うのです。
思考の構造全体がわたしたちを武装解除させるのです。
しかし、はじめにわたしたちをあれほど怒りに駆り立てたものはなにひとつ
消え去ったわけではありません。世界の悲惨は続いています。
だから学問的にタブーと考えられていることをやってみる必要があるのです。
つまり、子供のように叫ぶこと、あらゆる構造的な説明をふりきった
叫びをあげることが必要なのです。

「精神科医が何といおうが、かまわない」
「私たちの主体性が社会的につくられたものであろうが、かまわない」
「これはわたしたちの叫びなんだ、私たちの痛みなんだ、私たちの涙なんだ」
「わたしたちは自分の怒りを現実のなかで薄めてしまおうとは思わない。
 むしろ現実のほうが叫びに道をゆずるべきだ。」
「私たちを、子どもや若造みたいだといいたければ、そういえばいい」
「私たちは叫ぶ。ここにこそ私たちの出発点があるのだ」

そういわなければならないのです。

(ジョン・ホロウェイ「権力をとらずに世界を変える」)

「資本主義の死は心臓に短剣を突き刺すことによってではなく、
何百万という蜂が刺すことで果たされるだろう。
我々は蜂である。東京に集結しよう。」
(ジョン・ホロウェイ「蜂の群れ、東京へ」)

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▼1960年代のアナーキスト・ドラム・サークル

▼「アナーキスト・ドラム・ギャザリング」_d0017381_2381665.jpg 「1960年代、わたしたちの多くはサンダードラマーでした。わたしたちは、ドラムの持つパワーや神秘性、意識の覚醒に魅せられて、目の前にあったドラムの世界にはいっていったのです。アナーキスト・ドラムサークルで、わたしたちは知らぬが仏という感じで、リズムの海を舵も持たずに渡ろうとしていました。私たちは自分たちがどれほど無知であるかをまったく知らずに、また誰もそんなことを気にかけていませんでした。当時、ドラムにふれる方法は、これらのアナーキスト・ドラムサークルまたはサンダードラム・サークルしかありませんでした。このタイプのドラムサークルは、レインボー・ギャザリングにおける恒例のイベントとして、人気を得ていきました。毎年、何千人もの人びとが、アメリカの効率公園の森のなかで(毎年7月初旬に)開かれるレインボーギャザリングのために集まりました。そこで一週間のあいだ、参加者はおたがいや地球との平和で調和のとれた関係を保ちながら生活し、来たときよりも帰るときのほうがきれいになるほど環境美化に勤めたものです。そこで開かれるドラムサークルでは、何百人という数の人びとが参加し、毎日夜どおしでドラムの音が続くことも珍しくありませんでした。この種のサークルには、誰でも自分のリズムスピリットを自由に表現することができ、誰からリーダーや先生になったりしない、という無言のルールがあります。まさにアナーキズムです。人びとは暗黙の了解のうちに、合意点を探ってゆきます。もしもアナーキスト・ドラムサークルで、みんなで同じパルスを基本にしてやってみないかい?」といったとしたら、「ルールなしがルール!」のグループにルールをおしつけようとしていると解釈されてしまいます。アナーキストドラムサークルでのファシリテートは不可能ではありませんが、あくまでも極力さりげなく、最も基本的な方法した適さないでしょう。特定ドラムサークル、ドラムサークル全体のなかでは、アナーキストドラムサークルと両極の位置にあります。先生から生徒へ、また世代から世代へと交渉で受け継がれてきた伝統を勉強しながら、参加者はその文化の源に深い敬意を抱いています。アナーキスト・ドラマーたちは、特定文化ドラムサークルのことを、野生の馬が柵の中で飼われているように見るでしょうし、特定ドラムサークルのドラマーは、アナーキストドラマーのことを無知で、伝統あるドラミングに対して敬意を払わない無礼者だと思っているでしょう。わたし(アーサー・ハル)は、この両者の間に立っています。私はアナーキスト・ドラマーが形式にとらわれず、自由にドラミングスピリットを解き放つときの、彼らが「知らずに知っている」ほとばしりから出るスピリッチョを尊重しています。それと同時にか、古い文化や伝統が私たちに与えてくれるガイダンスや叡智、テクニックにも深い敬意を抱いています。コミュニティ・ドラムサークルは、このような両極に位置しているようにみえるドラムサークルの両方の長所を併せもっています。コミュニティドラムサークルは、演奏経験や能力レベルに関係なく、誰でも参加できます。そこにはリズムを通した自由な自己表現と、特定文化ドラムサークルにみられるいくつかのベーシックなユニバーサル原理が共存しているのです。」(アーサー・ハル「ドラム・サークル・スピリット」)

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たとえば、NYで参加した「コミュニティ・ドラムサークル」や、サンバチームの練習のような「特定ドラムサークル」のどれも好きでですが、アーサー・ハルのようにその中間に立とうというつもりはありません。今回やるのは「アナーキスト・ドラムサークル」です。ただし七〇年代の「アナーキスト・ドラムサークル」ではなく、シアトル以降の「新しいアナーキストたち」が「合意形成」のなかで行なうファシリテーション・システムを導入したゼロ年代の「アナーキスト・ドラムサークル」の実験です。

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▼ゼロ年代の新しいアナーキストたち

▼「アナーキスト・ドラム・ギャザリング」_d0017381_2385069.jpg
「北米では、ヨーロッパと同様に、マルクス主義者と初期のアナーキストグループが「多数決」を主に用いた。しかしアナーキストとのグループの多くでは、提案に反対票を投じた者は評決の結果に束縛されることはないと考えていた。アメリカでは、ソサィエティーオブフレンズが非常に初期の段階から「合意形成」による意思決定を行なっていた。クエーカー教徒は非常に初期の段階から1950~1960年代の平和運動にいたるまで活発な社会運動を行なったが、多くの場合、他のグループに彼らの形式化されて「合意形成」を伝えることはなかった。1970年代に現代的な「合意形成」の方法が生まれ、はじめてこの状況に変化が生じた。急進的なクエーカー教徒が、形式化された「合意形成」のトレーニングを提供しはじめ、1970年代の終わりから1980年代初頭にかけての反核運動の直接行動を指向するグループの形成においてカギとなる役割を果たした。このときはじめてアメリカで、形式化された「合意形成」「アフィニティ・グループ」「スポーク会議」などの、いまやおなじみとなっているパーツが全て出揃うことになった。結果は、戦術的なレヴェルにおいて、目をみはるような成功を示した。「合意形成」による意志形成は、この10年で世界中にひろがった。ヨーロッパの直接行動を指向するグループは、少なくとも2001年のプラハのIMF抗議行動以来、アメリカ型の意志決定の進行方法を多く採用するようになった。」(デヴィッド・グレーバー「合意形成の歴史」)

「ファシリテイターには、会合を導き、グループが決断するのを助けるため、一時的な権威が与えられている。このためファシリテイターという役割は可能な限り、交代されなくてはならない。ファシリテイターは、注意深く、積極的に人の意見に耳とかたむけること。ファシリテイターは、グループが意志決定する際の仲介者である。ファシリテイターは議論がどこに向かっているかに耳をかたむけ、議論が到達点に達するように手伝わなくてはならない。同時にファシリテイターは、個々人の立場や思いを認識し、敏感に感じるよにすることが必要である。」(ロックダブコレクティヴ「合意形成、その促進、そして解放」)

「ファシリテートという言葉は、容易にすること、楽にすることを意味します。ファシリテーターは、リズム奏者であり、リーダー、教師、チームビルダー、オーケストラの指揮者、インスピレーションの源、リズムチャーチの伝道師でもあるのです。コミュニティドラムサークルのファシリテイターが目指す究極のゴールは、サークルがファシリテイターがいなくなっても優れた音楽演奏ができるところまで、サークルを導くことです。(アーサー・ハル「ドラムサークル・スピリット」)

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[世界のドラムサークル]

▼Drum Circle marindrumcircle.com


▼Hippie-Hill Drum Circle 2007 - I

[バーニングマンでのドラムサークル]


▼Burning Man 2007 - sand storm drum circle


▼Burning Man 2008: Drum Circle at Center Camp

[映画のなかのドラムサークル]


▼映画「扉を叩く人」


▼セントラルパークのドラムサークル(映画「扉を叩く人」より)

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[ウランアゲルとT.C.D.C.のためのテキスト]


▼T.C.D.C.

「まず叫びがあった。あなたは覚えているだろうか?おそらくきっかけになるのは、街路に響くマーチングバンドのリズムである。それまで何千もの身体がひしめく空間にただよっていたのは、きまりの悪いよそよそしさだった。そこには敵意や不信感はないが、見知らぬどうしの冷たい距離があった。しかし、その瞬間に、互いを隔てる壁が消えうせる。ドラムの最初の一撃とともに、最初に亀裂が走るのは、互いを隔てるまなざしの壁、パフォーマンスやライブを受動的に享受するだけのオーディエンスたちのまなざしがつくる空間、すなわち、スペクタクルの空間である。メロディが鼓動のように群集に伝わるにつれて、われわれはホーンの音に魅せられる。腕やことば、記憶そしてノイズ、それらが時間や欲望を通じて、ゆるやかに結びつけられてゆく。直接性と情動をつくるというラディカルな美学が実践されているのである。その美学の概念がもとづいているのは、芸術的なつくりの内容よりも、集団的な創造のプロセスから生まれる関係や経験である。われわれはここで情動の空間の創造をまのあたりにしている。それは共にある空間であり、さまざまな結合、議論、共同性が出現するのに不可欠な前提条件となる結合である。そうした機会をつうじて、さらに新しい関係や相互行為が可能となる民衆の空間が出現する。だから、(ドゥルーズがいうような) 民衆の欠如はもはや嘆くべきことではない。情動をつくるという視点からストリートアートやパフォーマンスアートを検討することは、それらの芸術活動がさまざまなポテンシャルをつくりだし、さらにそれがいかに自己組織化のフォームの発展に寄与しているかを検討すること他ならない。基本的な活動形態は贈与(そしてパフォーマンス)という無償の交換であり、それによって芸術の商品化の論理を回避しようとする。そこに受動的な消費の余地はない。すべてのオーディエンスが同時に参加しなければならない。この意味においてラディカルなマーチングバンドの方法は興味深いのだ。それは通常の空間をきりくずす芸術的なパフォーマンスであり、街路に移動可能な情動の空間がつくりだされ、そこに新たな関係が出現する。その関係には希望が宿り、日常生活の網の目のなかに血が通うことになるのだ。マーチングバンドが登場するやいなや、人びとはパフォーマーとオーディエンスを分断していたステージをみつめることをやめ、マーチングバンドの動きにあわせて踊り騒ぐ。もともとマーチングバンドは国家形態に属するものであり、国家が定義する空間をもたらすものだ。その集団は整然とコントロールされて隊列をなし、軍隊に密接に結びついている。そこで提供されるのは、行動への刺激を与える一種のサウンドトラックである。だが、こうした国家や軍隊への結びつきがあるからこそ、それらが抗議の戦術として転用されたり横領されるときに、それがきわめて愉快なものになるのである。しかし、そうした空間が妨害や問題なしに存在すると思ってはならない。そうした空間に対する弾圧や回収は避けがたいものである。また、それらもくりかえしているうちに儀式化されたものとなり、固定した循環のパターンへと後退するだろう。問題はつくりだした空間の情動的なボリュームをキープしつづけることである。スペクタクルへ回収されるワナを回避し、さまざまな瞬間や可能性が凝り固まったり、つくられたかたちのなかで生気を失わないようにする方法である。これは決して一度かぎりの出来事で終わるものではないし、そうなる可能性もない。それはラディカルな想像力を自ら定位させる持続的なとりくみに他ならない。それは絶えざる更新のプロセスであり、そのなかで公共圏から可能性のスパイラルが生まれ、強化されてゆくはずだ。」(スティーヴン・シュカイティス)

「サウンドデモの現場では、「サウンドを出す側/サウンドを受け取る側」が明確に分離され、結果として「パフォーマー/オーディエンス」という一種の上下関係が認識されているという点がある。運営に直接かかわりあいのない、ある参加者は「トラック上に立っているDJと下に立ってる自分たちのあいだに、ヒエラルキーではないが、差を感じる」と語っていた。また、運営者の中にも有名なDJの参加によって「サウンドを出す側/サウンドを受け取る側」の距離が広がることを基部している者もいた。ただし、運営側の人びとすべてがこうした問題について考えていなかったわけではない。とたえば、サウンドシステムのもつ暴力的な側面、ハウスビートの暴力性を問題視して組織化されたT.C.D.C.というサブユニットが、いわゆるうチンドン屋のものに近い、反サウンドシステムという側面を併せ持ったパフォーマンスを行なっている。T.C.D.C.は結果としてサウンドシステムのPAスピーカーからの音が届かない場所での後方支援的な機能を果たしていたといえる。また、参加者に対しては楽器やそのほかの音の出るものを持参することが事前にアナウンスされていたため、デモ全体としては太鼓やギター、パーカッションなど、さまざまなサウンドが発せられていた。」(文=寺師正俊+河島茂生/吉見俊哉・北田暁大編「路上のエスノグラフィー」せりか書房)

「サウンドデモも民衆的であろうとする、というか自然にそうなっていた気がします。場を作っていくまでは民主的といえますが、サウンドシステムからズドンと音が鳴った瞬間に、民主性よりも民衆性が優先される場になるんです。ひとつ面白いエピソードがあります。機動隊や公安、一部のデモ参加者がもみくちゃになってニッチもサッチもいかない時に、T.C.D.C.というドラム、サックス、トラメガで音を出したり、ラップをしたりする十人前後の流動的な集団がいまして、彼らが「ドガドガダガ、ブリッ、ブリ、ブー、ブリ!ワー!ってムチャクチャな音を吐き出しながらそこに割り込んでいった。そうやって、踊り踊らされながら機動隊と公安を蹴散らしてゆく。僕の民衆的というイメージはまさにこれです。」(談=二木信/「平岡正明のDJ寄席」愛育社)
by illcommonz | 2009-07-02 23:15
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