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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼多摩美「野生の人類学者たち」
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 「野生の思考」は人類学/民族学によって見いだされました。人類学をまなんだり、人類学に大きな影響をうけながらも、「人類学者になりそこねた作家」や「人類学者にならずにすませた表現者」たちがいます。そうした作家や表現者たちを「野生の人類学者」としてとらえ、その作品やものの考え方、生き方などから、「人類学とはどんな知性なのか」を考えてみます。

 ミシェル・レリス(詩人)
 カート・ヴォネガット(SF作家)
 グレゴリー・ベイトソン(精神生態学者) 
 ゾラ・ニール・ハーストン(小説家) 
 マヤ・デーレン(映像作家、ダンサー)
 ロバート・フラハティ (映画作家)
 ジャン=リュック・ゴダール(映画作家) 
 ウィリアム・バロウズ(小説家、芸術家) 
 アスガー・ヨルン(画家、シチュアシオニスト) 
 ソール・ベロー (小説家)
 デイジー・ベイツ(福祉活動家) 
 ジョン・ルイス (音楽家)
 キャサリン・ダンハム(舞踏家) 
 ジャン・ピエール・ゴラン(映画作家) 
 ジョゼッペ・シノーポリ(指揮者) 
 ハリー・スミス(映像作家、民族音楽研究家)
 ゲーリー・スナイダー (環境活動家)
 テオ・アンゲロプロス(映画作家) 
 カルロス・カスタネダ(作家) 
 ジョゼフ・コスース(現代美術家) 
 ジェローム・ローゼンバーグ(詩人) 
 ローター・バウムガルテン(現代美術家) 
 トム・ハリソン(ジャーナリスト)
 ディヴッド・トゥープ(現代音楽家) 
 トリン・T・ミンハ(映画作家) 
 ヴェルナー・ヘルツオーク(映画作家) 
 サム・ライミ(映画作家) 
 シャロン・ロックハート(現代美術家)
 ブルース・ナウマン(現代美術家) 
 クレメンティーヌ・デリス(現代美術家) 
 ジョアン・ビンゲ(SF作家) 
 スーザン・ヒラー(現代美術家) 
 フレッド・ウィルソン(現代美術家) 
 ルネ・グリーン(現代美術家) 
 アミタフ・ゴーシュ(SF作家) 
 ダン・グレアム(現代美術家) 
 ミルナ・マック(人権活動家) 
 メアリー・ケリー(現代美術家)
 エド・ルッシュ(現代美術家) 
 ジェイムズ・クリフォード(文芸批評家) 
 土方久巧(彫刻家)
 岡本太郎(芸術家) 
 牛山純一(TVプロデューサー)
 ザック・デ・ラ・ロッチャ (音楽家)
 イルコモンズ(元・現代美術家)

「民族学とは、未開社会という特殊な対象によって定義される専門職ではなく、いわば、ひとつのものの考え方であり、自分の社会に対して距離をとるならば、私たちもまた自分の社会の民族学者になるのである」(モーリス・メルロ=ポンティ)
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by illcommonz | 2011-09-22 15:18
▼文化人類学解放講座
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「台風15号の接近に伴う9月21日(水)の多摩キャンパス臨時休講措置について」
 「台風15号の接近に伴い、交通機関等への影響が予測されることから、多摩キャンパスおよび市ヶ谷田町キャンパス(文系大学院)においては、9月21日(水)の3時限以降の授業を臨時休講といたします。不要不急の外出は避け、自宅で待機して下さい。なお、22日(木)以降の授業等は通常通り実施する予定です。」(2011年9月21日)

 「文化人類学解放講座」 本日休講です。
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by illcommonz | 2011-09-21 12:43
▼「親子四代原発無用」
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(via http://kai-wai.jp/2011/09/no-nukes-all-str-demo-2011919.html#more) ※クリックで拡大
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by illcommonz | 2011-09-21 05:14
▼「私たちはなにげなく差し込むコンセントのむこう側の世界を想像しなければなりません」


 「3.11原発事故を境に、その風景に、目には見えない放射能が降りそそぎ、私たちはヒバクシャとなりました。大混乱の中で、私たちには様々なことが起こりました。すばやく張りめぐらされた安全キャンペーンと不安のはざまで、引き裂かれていく人と人とのつながり。地域で、職場で、学校で、家庭の中で、どれだけの人々が悩み悲しんだことでしょう。毎日、毎日、否応無くせまられる決断。「逃げる、逃げない?食べる、食べない?洗濯物を外に干す、干さない?子どもにマスクをさせる、させない?畑をたがやす、たがやさない?なにかに物申す、だまる?」様々な苦渋の選択がありました。

 そして、今、半年という月日の中で、次第に鮮明になってきたことは「真実は隠されるのだ、国は国民を守らないのだ、事故はいまだに終わらないのだ、福島県民は核の実験材料にされるのだ、ばくだいな放射性のゴミは残るのだ、大きな犠牲の上になお、原発を推進しようとする勢力があるのだ、私たちは棄てられたのだ」。

 私たちは疲れとやりきれない悲しみに深いため息をつきます。でも口をついて出てくる言葉は、「私たちをばかにするな」「私たちの命を奪うな」です。福島県民は今、怒りと悲しみの中から静かに立ち上がっています。子どもたちを守ろうと、母親が父親が、おばあちゃんがおじいちゃんが、自分たちの未来を奪われまいと若い世代が、大量の被曝にさらされながら、事故処理にたずさわる原発従事者を助けようと、労働者たちが、土を汚された絶望の中から農民たちが、放射能によるあらたな差別と分断を生むまいと、障がいを持った人々が、ひとりひとりの市民が、国と東電の責任を問い続けています。そして、原発はもういらないと声をあげています。私たちは今、静かに怒りを燃やす東北の鬼です。

 もうひとつ、お話したいことがあります。それは私たち自身の生き方・暮らし方です。 私たちは、なにげなく差し込むコンセントのむこう側の世界を、想像しなければなりません。便利さや発展が、差別と犠牲の上に成り立っている事に思いをはせなければなりません。原発はその向こうにあるのです。

 人類は、地球に生きるただ一種類の生き物にすぎません。自らの種族の未来を奪う生き物がほかにいるでしょうか。私はこの地球という美しい星と調和したまっとうな生き物として生きたいです。ささやかでも、エネルギーを大事に使い、工夫に満ちた、豊かで創造的な暮らしを紡いでいきたいです。

 どうしたら原発と対極にある新しい世界を作っていけるのか。誰にも明確な答えはわかりません。できうることは、誰かが決めた事に従うのではなく、ひとりひとりが、本当に本当に本気で、自分の頭で考え、確かに目を見開き、自分ができることを決断し、行動することだと思うのです。ひとりひとりにその力があることを思いだしましょう。私たちは誰でも変わる勇気を持っています。奪われてきた自信を取り戻しましょう。そして、つながること。原発をなお進めようとする力が、垂直にそびえる壁ならば、限りなく横にひろがり、つながり続けていくことが、私たちの力です。」(ハイロアクション福島原発 「9.19 さようなら原発・武藤類子さんスピーチ」より抜粋)
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by illcommonz | 2011-09-21 05:03
▼はい。
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by illcommonz | 2011-09-21 03:53
▼「チルドレン・プライド」
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「おこづかいをあげろー 上石神井で子供たちがデモ行進」
 「おこづかいをあげろー」「夏休みを増やして」。東京都練馬区の上石神井児童館の子供たち22人が、自分の願いを記したプラカードを持って、上石神井駅周辺でデモ行進「チルドレン・プライド」を展開した。児童館をアーティストのアトリエとして活用し、子供たちと一緒に作品を製作するプログラムの一環。自分の気持ちを社会に伝えるきっかけづくりがねらいだ。焼き鳥屋の前にさしかかり、「焼き鳥が食べたい」と呼びかけが突然変わる子もいて、大人たちは目を細めて眺めていた。(2011年9月19日 MSN産経ニュース)

 たぶん産経は、今日の6万人デモのことをあまり報道したくないので、これを記事にしたのだろうが、これはいいニュースだ。いいぞ、チルドレン・プライド、もっとやれ。そうだ、次はサウンドデモをやっちゃえ。「アンパンマンたいそう」を爆音でかけながら街をデモして、おとなたちをビビらせよう。こどもはおとなのまねをし、おとなたちは、このこどもたちをみならおう。この世でもっともラディカルな民主主義、それは、選挙権もなければ、おこづかいもすくなく、よもや社会に口出しをするなどとはそもそも考えられてすらいない真の「デモス(いかなる政治的な権利も資格も持たない、とるにたらない者や勘定にいれられない者たち)」である、こどもたちが声をあげることだ。がんばれ、ちいさなデモスたち、たたかえ、ちいさなデモスたち。
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by illcommonz | 2011-09-20 00:44
▼きょう、とうきょうでは、
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おばあさん、おじいさん、おばさん、おじさん、おかあさん、おとうさん、おねえさん、おにいさん、いもうと、おとうと、いぬ、ねこ、うし、とりたちが、みんなあつまって、「げんぱつはもういらないよ」と、いいました。(つづく)

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[追記] おっと、わすれるところだった。今日の渋谷のデモで、ひいおばあさん、おばあさん、おかあさん、むすめの4世代で原発に反対している家族をみた。たのもしいと思った。
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by illcommonz | 2011-09-19 23:53
▼「愛と平和と和解のどこがそんなに変なんだよ」
「9.11 新宿・原発やめろデモ!!!!! 報告!!!!!」
 「9月11日の「新宿・原発やめろデモ!!!!!」、今回もすごい人数が集まり、新宿一周デモとアルタ前広場大集会、盛大に開催できました!!!  9・11は事故から半年のタイミング! 「半年経っても問題は全く解決してねえぞコノヤロー!!」っていう主張が大きくできて、またも大群衆による意思表示ができて大成功でした!
 ところが! 今回はデモ自体への規制が非常に厳しく、合計12人の逮捕者が出ました!!!! 原発よくないって言ってるだけなのにこれは冗談じゃないよ、本当に!
 状況としては、まずデモ直前に出発地やコースが強制的に変更させられるなど、早くも混乱が起こり始めました!(ひどい! こりゃ、事実上の不許可でしょ)
 で、デモ中も、途中参加をさせないなどデモ自体への出入りの規制も厳しく、やたらと過剰な警備がされていました!
 一方、新宿アルタ前広場でも、許可を取っているにもかかわらず、何だかんだといちゃもんをつけて来て、アルタ前から群衆を排除しようとしていました。
 そんな感じで、妙な過剰警備のおかげでデモが混乱する中、結果的に12名の逮捕者が出ました。これは本当にひどい。これだけ世の中がヒドイ状況の中、デモや集会で文句を言うのは当然のことだし、我々が言いたいことはただひとつ「原発いらねえ!」ってこと。デモだって法的にも普通に認められてる行為。何の嫌がらせなんだろ、まったく!!
 今回の警備状況を見ていると、どう考えてもデモや集会での盛り上がりをなんとか阻止したいって感じの意図が見え見えでした・・・。
 やい、つまらない仕事をやらされている現場の警察諸君! あと、原発を守りたがってる、くだらない政治家連中! これだけ世の中が大変な時に、そんなショボくれたデモ規制なんかやってる場合か!
 ともかく一刻も早く、捕まってる人達を解放してくれ!!」

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 4月10日の高円寺の「原発やめろデモ」で知り合い、「原発やめろデモ」のたびに親密になっていった警官のカップルが、半年後の9.11の「原発やめろデモ」のあの大混乱のなかで、結婚することを決めた、なんてことがありうるだろうか?たぶんないと思う。あんな「つまらない、ショボくれた」仕事をやらされていては、将来の夢のひとつも語ることはできないだろう。かたや、デモには夢がある。デモは自分たちがこうしたいと思う未来を思い描き、確かめあう場である。目覚めたまま誰かとともに夢をみる場である。そこにロマンスがうまれても、なんの不思議もない。いま自分たちがやっていることが未来を変える、いまここから何かが変わりはじめる、そういうわくわくする感覚からロマンスはうまれる。いつもデモにドラムを持って参加するのは、デモのなかでうまれる夢やロマンスをもりあげる伴奏役になりたいと思うからだ。今日も日本全国でデモがある。WE HAVE A DREAM。デモにいく時、自分のあたまの中では、いつもこんな曲が鳴っている。


▼エルビス・コステロ&アトラクションズ「愛と平和と和解のどこがそんなに変なんだよ」
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by illcommonz | 2011-09-19 10:48
▼石川雷太監修「アトミックラインズ」
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▼石川雷太監修「アトミックラインズ」
[日時] 2011年9月18日(11:00-21:00)-19日(11:00-19:00)
[場所] 崔誠圭×石川雷太展「Imaginary lines/見えない線」スペース5
KAWAGUCHI ART FACTORY (埼玉県川口市元郷2-15-26)

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 現在開催中の崔誠圭×石川雷太「Imaginary lines/見えない線」展(9月10日-19日)の最終日、石川雷太監修による「アトミックラインズ」において「アトミックサイト」の一部が復元されます。「アトミックサイト」の「分裂・増殖・拡散」のはじまりです。「みなさまがた、いまにみておれでございますよ」。

【予告】
▼山川冬樹監修 「アトミックショーケース」
[日時] 2011年10月26日-31日
[場所] 東京・渋谷アップリンクギャラリー
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by illcommonz | 2011-09-18 13:51
▼身潰すほどの「ゆめ」敗れて「じ め ん」あり
「身捨つるほどの祖国はありや」(寺山修司)

 飴屋法水作・演出の「じ め ん」の初演をみてきた。というより「参列」してきたというべきだろう。これから「参列」する人たちもいるので、ことの次第は省くが、ドイツ文芸批評の伝統的な分類に従うなら、「じ め ん」は、3.11以後の日本の国民的「哀悼劇=Trauerspiel」ということになるだろう(ドイツ以外の国では、この「哀悼劇」のことを「悲劇」とよぶ)。先だって「アトミックサイト」が演じてみせた原発グランギニョル劇「原発供養ノ夜」は、その名の通り、「原発」を先取り的に「供養」してみせるものだったが、「じ め ん」が、1945年の過去と2051年の未来のあいだのどこかで「哀悼」してみせたのは、それとはべつのものである。それは「近代と呼ばれる時代のどこかで創生されたもの」で、国民的規模の「共同幻想」であるが、「じ め ん」はその「ゆめ」の終わりを哀悼するセレモニー(儀式)であり、群集劇であった。「じ め ん」は、3.11の原発事故によって、それを喪失してしまった者たちの「ゆめ」に幕引きをし、落とし前をつけるものであった。それは3.11以後に生きのびた者たちの誰かがひきうけなければならならない困難な務めであり、「じ め ん」はそれを、演劇に(とりわけ古代において儀式の場であった野外劇場で)しかやれないやりかたで、やってみせたと思う。それが「ゆめ」であれなんであれ、誰かが「身を潰す」ほどのやりかたで、それを弔うことなしには、ひとはその先へは進めないのだ。葬儀や通夜の席で参列者たちが最も心を痛めるのは、親を亡くした幼い子どもたちの行く末であるが、舞台から姿を消した演出家が最後に用意していた遺児たちの葬列は、「ゆめ」敗れたあとの、ちいさな群集たちが歩む「地平=じ め ん」を指し示していたと思う。
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by illcommonz | 2011-09-17 01:47