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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼NIPPONチーム、59位に後退
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「報道の自由 日本後退59位 原発事故、秘密法響く」
 「国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」(RSF、本部パリ)が十二日発表した、世界各国の報道の自由度を順位付けした報告書で日本は昨年の五十三位から五十九位に後退した。東京電力福島第一原発事故の影響を取材しようとするとさまざまな圧力を受けるとされたほか、特定秘密保護法の成立が響いた。日本は、各国を五段階に分けた分類で上から二番目の「満足できる状況」から、主要先進国で唯一、三番目の「顕著な問題」のある国に転落。東アジアでは台湾や韓国を下回る自由度とされた。日本は昨年も福島の事故について情報の透明性が欠けるとして大きく順位を落としていた。報告書は特にフリーランスや外国人の記者への圧力を問題視。記者クラブ制度が原因だとし、事故後こうした記者への偏見が強まっていると指摘した。また安倍晋三政権で成立した特定秘密保護法により、原子力問題を取材する記者の活動はより危険なものになるとした。国家安全保障局(NSA)による情報収集活動が問題になった米国については「国家安保の概念が悪用された」と批判、昨年から十四ランク低い四十六位とした。対象百八十カ国のトップ3はフィンランド、オランダ、ノルウェー。」(東京新聞 2014年2月12日)

[疑問] オリンピックでは、メダルの色が「金」か「銀」か「銅」かで、あれほど一喜一憂するのに、報道の自由ランキングでは、世界59位であっても、まったく気にならないのだろうか。

[質問] この後退の原因はなんでしょう?
[回答] 安倍のせい。
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by illcommonz | 2014-02-12 21:40
▼「メディアと芸術」オンライン・プリント
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▼小田マサノリ 「メディアと芸術」(2014年) 講義資料
 オンライン・オープン・プリント(A4ヨコ・リーフレット編集版・表紙つき)

 この講義では「岩波文庫」におさめられるような、BASICなメディア論(ウィリアム・モリス、ヨゼフ・チャペック、カレル・チャペック、チャールズ・チャップリン、ムハトマ・ガンジー、エーリッヒ・リョイルマン、アルビン・フラー、ルイス・マンフォード、エルネスト・シューマッハほか)の機械文明・科学技術論から、最近の「新書」におさめられるような比較的あたらしいテクノロジー・メディア論(ニコ・メレ、クリス・アンダーソン、ビル・マッキベン、エリック・マクルーハン、ジョシュア・メイロウィッツ、ポール・ヴィリリオ、ミヒャエル・エンデ、ヨーゼフ・ボイス、アントニオ・ネグリ、ジル・ドゥルーズ、ゴドフリー・レジオ、宮崎駿ほか)までをとりあげ、人類最古のメディアである石器から、近未来のメディアであるグーグルグラスのようなAR(拡張現実)デバイスまで、「テトラッド」というメソッドをとおして、「強化」「衰退」「反転」「復活」という4つの視点から、メディアを考えます。

▼「メディアと芸術」講義用シラバス+インデックス
http://illcomm.exblog.jp/20329044/
▼「メディアと芸術」講義用オンライン・テキスト1
http://illcomm.exblog.jp/20335352/
▼「メディアと芸術」講義用オンライン・テキスト2
http://illcomm.exblog.jp/20335388/
▼「メディアと芸術」講義用オンライン・テキスト3
http://illcomm.exblog.jp/20335398/

【おしらせ】
ご要望があれば、2014年に立命館アジア太平洋大学でおこなった本集中講義(15回
)を他大学・専門学校・市民講座でもおこないます。通年(30回)、半期(15回)、集中講義のほか、ご要望に応じて講義をうけたまわりますので、本エントリーのコメント欄から、ご連絡ください。


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「Linux(フリーのOSソフト)は、僕が分かってるつもりだったものを、大幅にひっくりかえしてくれた。それまでも、小さなツールや高速プロトタイプ、進化的プログラミングといった Unix の恩恵は説いてきたが、そのもっと上のレベルでは、より中央集権的なアプローチが必要だと思っていた。いちばん大事なソフトは、「大聖堂」のように組みたてられなければならず、ひとりの魔法使いか、あるいは、魔術師たちの小さなグループが独自に、かつ慎重に組みあげてゆくべきもので、完成するまでに、ベータ版を何度も出さなければいけないと思っていた。だから リーヌス・トーヴァルズ(Linux の開発者)の開発スタイル、つまり、さっさとリリースし、人にまかせられるものは何でもまかせ、何でもオープンにすることには驚かされた。それは、静かで荘厳な大聖堂づくりではなく、むしろ、いろんな作業やアプローチが渦まく、騒がしい「バザール(青空市場)」に似ていた。そこから安定して一貫したシステムがうまれるには、いくつもの奇跡が続かなければ不可能だと思えたが、どういうわけか、この「バザール方式」が、まともに機能するらしく、しかも、みごとな結果を生みだすことは衝撃以外のなにものでもなかった。」(エリック・レイモンド 「大聖堂とバザール」1997年)
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by illcommonz | 2014-02-09 16:21
▼「メディアと芸術」講義用オンライン・テキスト1
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「メディアの研究は知覚の扉をひらくものです。この分野では若い人たちがトップレヴェルの研究活動をおこなうことができます。そこで教師は、学生ができるだけ包括的な項目にあたるように仕向けさえすればよいのです。どんなこどもでも、自分の友人や仲間の生活や仕事をかたちづくる上で、電話やラジオや自動車がどういう効果を及ぼしているかを数えあげることができるでしょう。メディアがおよぼす効果を包括的にかぞえあげてゆけば、認識と探求の上で、多くの思いがけない道がひらけてくるはずです。」(マーシャル・マクルーハン「ペーパーバック版への序文」1965年)

「デジタル・アートゆえに価値がある、あるいは、先進的な表現であるというような評価は、21世紀にはいった現在、もうそろそろ改めなければならないだろう。デジタルメディアという電子メディアがつくりだすデジタル・アートは、スクリーンやフィルムという実体をもたないアートであり、絵の具や額縁など現実の存在として、重みを持つ媒介物にこそ、美があると信じてきた世代には、存在感が希薄な芸術表現といえる。そこには、油絵の具やテレピン油、ワニスの懐かしい匂いや、盛り上がった絵の具やキャンバスの材質感もない。画像の筆使いや微妙なタッチの温もりも伝わってこない。古典的な名画に見るかすかな絵の具のひび割れやニスの光沢も、電子画像には見出せない。つまり芸術作品が私たちに与える感動や深い感銘は、オリジナル作品と対峙した場合にのみ得られるものであって、映像のデジタルコピーからは得られることはできないのである。また芸術的な感性も育まれてこないのである。人はコンピュータやケータイに向かうとき、すでに豊かな感性を喪失しているのだ。デジタル・メディアによるコミュニケーションは、人間本来のコミュニケーションのクオリティを低下させ、感性を劣化させるのだ。人の心を打つ香り高い芸術作品を生み出すためには、形や色・材料や映像にも精通した卓越した造形力に裏打ちされた「感性」の存在が、絶対条件となる。」(三井秀樹「メディアと芸術/デジタル化社会はアートをどう捉えるか」2002年)

「新しい技術やコミュニケーション手段が出てくると必ず一定の拒否反応が生まれます。ある種のテクノフォビア(新しい技術に対する嫌悪)ですが、ソーシャルメディアについてもそれは同様に起きています。「ファクスが世界を変えたか?」「携帯電話が世界を変えたか?」「ケータイのカメラ機能が世界を変えたか?」と尋ねられたら、それは「変えたにきまっている」と答えます。ファクスも、携帯電話も、登場したことによって、いい面、悪い面の両方が浮かび上がってきました。しかしそういうことを議論することは僕はあまり意味がないと思っています。便利なものは良い悪い関係なく、必然的に普及していく。むしろわれわれはコミュニケーション手段が変わると、世の中も変わるということに注目しなければなりません。」(津田大介「動員の革命 ソーシャルメディアは何を変えたのか」2012年)

「周りをみてほしい。私たちは「ラディカル・コネクティヴィティ」を手に入れている。それは膨大なデータを瞬時に、いつでも、地球上のどこにでも送ることができる。とてつもない能力である。革命的な接続性を生み出すラディカルコネクティヴィティは、政治、ビジネス、文化を一変させている。テクノロジー好きのテクノフィルたちは、スマートフォン、インターネット、ソーシャルメディアなどのイノベーションが進歩を生み出していると礼賛する。現代のラッダイト(機械破壊)運動家たちは、新たな暗黒時代の到来を告げるものだと、これを非難する。」(ニコ・メレ「ビッグの終焉」2013年)

「実際に手で触れることのできるハードウェアの性質をもつもの、たとえば、キッチンのボウルや、ゴルフやホッケーのクラブ、フォークやスプーンといった道具類、鉄道、宇宙船、ラジオ、コンピュータといった装置、機械などと、ソフトウェアの性質をもつもの、たとえば、科学上の理論や法則、哲学的な体系、医学における治療法や病気そのもの、絵画や詩や演劇や音楽における形式や様式なども、ともに人間がつくりだした人工物、あるいは、メディアとみなしてもさしつかえない。すべては人工物であり、同様に、人間からひきだされたものである。芸術と科学、事物と観念、物理学と形而上学のあいだの区別は解消され、今日、流布しているメディアと人工物に関する古い科学は「新しい科学」にとってかわられる。」(エリック・マクルーハン+マーシャル・マクルーハン「メディアの法則」)

「次の世代のための芸術と教育の目的は、人間の遺伝子コードの解読ではなく、感覚コードの解読でなければならない。グローバルな情報環境のなかでは、「解答を見つける」式の古い教育パターンでは何の役にもたたない。人間は電子のスピードで動きながら変化する解答、それも数百万という解答に囲まれている。生き残れるか、コントロールできるかは、ただしい位置で、ただしい方法で、プローヴ(探知、計測)できるか、問いを発することができるかにかかっている。環境をつくりだす情報がたえなまく流動しているのを前に必要なのは、固定した概念ではなく、自然という書物をよみとるスキル、まだマップが存在してない魔の海域を航行する航海術である。さもなければ、私たちは、このテクノロジーと環境をコントロールできなくなってしまうだろう。」(エリック・マクルーハン+マーシャル・マクルーハン「メディアの法則」1988年)

「有機体はすべて、その身体を周囲の特殊な環境に適応させる。いくつかの例をあげると、キリンの長い首やトラの牙、ヒトの親指などである。有機体はその体の一部を発達拡張させ、それによって、本来なら体がやるはずのことの代わりをさせ、他のことをするために体をあけておくことを可能にした。人間が登場した時、こうした「拡張活動」が、人間の活動のなかにふくまれてきた。今日では、かつて人間が自分の身体を使って行っていたことのほとんどが「拡張活動」によって行われている。武器の進化は、こぶしと歯にはじまり、原子爆弾で終わる。衣服や住居は、人間の生物学的な音頭調整機能の拡張である。家具は、人が地面の上にうずくまったり、座ったりすることの代わりをする。工具、眼鏡、テレビ、電話、時空をこえて声を運ぶ本などは、物質的な拡張の例である。貨幣は労働を拡張したり、蓄える方法である。輸送網は、かつて人間が足と背中で行っていたことの拡張として扱うことができる。」(エドワード・ホール「沈黙の言語」1959年)

→文化人類学の「文化」の定義

「私たちは、他の理論を攻撃したり自分の理論を防御するための基本となる理論は何も提出してないが、そのかわりに、自発的な発見をたすけるための手段である、私たちが「テトラッド」とよぶ4つで一組みの問いを提案した。テトラッドは、誰でも、どこでも、いつでも、人間を手を加えたどんな人工物に対しても問うことができる(そして答えが正しいかどうかを確かめることができる)。

 それはなにを強化し、強調するのか?
 それはなにを廃れさせ、なににとってかわるのか?
 それはかつて廃れてしまったなにを回復するのか?
 それは極限まで推し進められたときなにをうみだし、なにに転じるのか?」

 (エリック・マクルーハン+マーシャル・マクルーハン「メディアの法則」)

「すべてのメディアは、われわれをすみからすみまで変えてしまう。それらのメディアは、個人的、政治的、美的、心理的、道徳的、倫理的、社会的な出来事のすべてにひろく浸透しているため、われわれのどの部分にも触れ、影響をおよぼし、変えてしまう。メディアはマッサージである。こうした「環境」としてのメディアの作用に関する知識なしには、社会と文化の変化を理解することはできない。」(マクルーハン)

「いろんなコンピュータシステムその他、どんどんどんどんすごいものができてくる。それにしたがって、人間は本当の生き方ができるのかというと、それは逆ですね。万博の時に「進歩と調和」というのがテーマだったんだけど、それに私は全く反対だったんですよ。人間はすこしも進歩してない。退歩してますよ。」(岡本太郎)

→「人間は木にのぼりそこねたサルだ」(岡本太郎)

「人間のいやがるような仕事をするためだけに機械が使われたり、人間がやるのと同じことをするために機械が使われという時期はとっくに過ぎてしまった。なんでもあたらしい工業製品が必要になると、そのための機械が発明されるものと本能的に期待してしまい、新しい機械が発明されなければならないということになる。そこで人間は機械の奴隷になる。機械が発明されると人は、その機械を使うようになるというよりも、人がその機械に使われるようになる。なぜ人は機械の奴隷になるのか。それはそうした機械の発明を必要とする制度があるからだ。ある意味で、わたしたちはみんな機械の奴隷だが、文字通り、奴隷となっている人たちがいる。それは労働者たちだ。労働者は、自分がつくりだす製品にまったく興味をもたないという意味で機械であり、機械の奴隷である。雇用主にとって、労働者は工場の機械の一部にすぎないのである。彼らはただ生きるために働いている人間にすぎず、職人としての役割や、みずからの自由意志でものをつくる人間としての役割が終わってしまっているのである。」(ウィリアム・モリス「民衆の藝術」1887年)

→フォーディズム

「聖書の語るところによれば、人間ははるか昔のあるときに、神の発明による一種の機械として創造された。なぜなら創造主たる神は、そのとき、土でまず空っぽの人形をつくりり、それから神の息を吹き込んで満たし、動くようにしたのである。人形はそれから世界を走り回り、人類の歴史に残るあらゆる行為をおこない、王国を建設し破壊し、戦争を遂行し、新しい領土を獲得し、自分たちの神をつくりだし、地球中にひろがり、教育と文明を発展させた。それらのことを、私たちは誇りに思っている。しかし、時が経つにつれ、人間はあまりにも人間になってしまい、その動物的な肉体があまりにも人間化され、それ以上、技術的に発展しなくなってしまった。自分でもそのことが恥ずかしくなるほどである。自分たちがつくりだしたテクノロジーの成長のまっただなかにありながら、時代遅れで、現代的ではないタイプの人間であることを恥ずかしく思っている。低レヴェルの人間であることを一刻もはやく克服して新人類となり、機械であることを実感できる鉄の人間になることを望んでいる。現代人たちは、機械化できるなら、自分を構成する各要素、自分の属する層、さまざまな関係、職業、さらに楽しみのすべてにおいて、もっと広く、もっと一般的に機械化されることを望んでいる。やがて私たちは、機械の指導者、機械の責任者、秘書、演説家、群集をつくりだすために、時計職人のように細かく面倒な仕事で苦労するようになるのではないだろうか。私たちの自然的欲求と能力の命ずるままに、もっと多くの機械を身につけようとするなら、いったいどれほど大きな体が必要となるだろうか。議会や銀行や企業のように、すでに巨大だと考えられてきた建物でさえ、いまでは不十分だということになり、改築されたり拡大されたり新築されている。私たちは、さまざまな実際的理由から、自然が私たちに課した本来の大きさで満足することにしよう。」(ヨゼフ・チャペック「人造人間」1924年)

「確かなことが一つある。「大きなもの」の時代の終焉がすぐそこに迫っている。」(ニコ・メレ「ビッグの終焉」2013年)

「機械は人間から創造力を奪うことによって、究極的に人間を支配することがありうるか否か」という疑問に対して私は多少とも答える責任を感じていることをまず告白します。その問題が私の心に重たくのしかかっているのは、あるとき、ほんのちょっとした何かのはずみで、「ロボット」を発明したからなのです。機械は人間の生活水準を大きな規模で向上させました。それは労働を軽減することによって、あるいは新しい欲求を生み出させることによって、あるいは人間の世界認識を高めることによってです。機械は人間の創造力を抑圧しません。なぜなら機械は人間の創造力から生まれたものだからです。人間と機械とのあいだに対立関係はありません。この百年のあいだに、わたしたちは人間のスピードと効率を何倍も高めてきました。しかし、同じような状況のなかで、私たちが人間の教育、生活の安定、あるいは人間の生命に価値をあたえるものを、同じような尺度で増大させてきたかというと、どうやらとても自慢できたものではないようです。私たちが進歩を口にするとき、自動車や電話回線の数でうぬぼれるのはやめましょう。そうではなく、私たちとその文明によって、わたしたちの人生が持つ価値こそを誇りにしましょう。機械が将来、人類の主人になることを私は恐れはしません。それよりも悪いのは、私たち人類が、人類ないしは人間のさまざまな問題の悪しき主人になることです。人間と機械の関係は、人間と人間との関係がどうなるかによって決まるものなのです。」(カレル・チャペック「機械の支配」1929年)

「ロボットは、電車に乗ったときに生まれたものである。ある日のこと、私は郊外を走る電車でプラハに行かなければならなかった。そしてその電車ときたら、不愉快なほど混んでいた。近代的な状況というのは、本来、ひとが慣れ親しんできた快適な状況を意識させなくなるのだということに気がついて、私はびっくりさせられた。電車のなかも、席も、羊たちが並ぶようにではなく、機械が並ぶようにびっしりと詰まっていた。そこで人間について、個人としてではなく、機械として考えることをはじめたのだった。」(カレル・チャペック「ロボットという言葉はどのように生まれたか」1924年)

「機械は神に対して宣戦布告した」(カール・クラウス)

「フランケンシュタイン・コンプレックスとは、 創造主(キリスト教の“神”)に成り代わって人造人間やロボットといった被造物(=生命)を創造することへのあこがれと、さらにはその被造物によって創造主である人間が滅ぼされるのではないかという恐れが入り混じった複雑な感情・心理のこと。メアリー・シェリーの小説「フランケンシュタイン」に由来する言葉で、SF作家アイザック・アシモフが名付けた。このロボットに対する人間の潜在的な恐怖が、「ロボット工学三原則」を生み出したという事になっている」(ウィキペディア)

「第一条:ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条:ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条:ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。2058年「ロボット工学ハンドブック」第56版」(アシモフ「われはロボット」)より

「この原則は、人間とロボットという主従関係で書かれているが、「安全(人間にとって危険でない存在)」「便利(人間の意志を反映させやすい存在)」「長持ち(少々手荒に扱ったくらいでは壊れない)」という、家電製品に代表される道具一般にもあてはまる法則であることが、日米のファンらによって指摘されている。」(ウィキペディア「ロボット三原則」)

「機械を使えば、容易に事が運ぶのは間違いありませんが、だからといって、幸福をもたらすとは必ずしもいえないのです。自分の手を使うやり方は、たしかに技術を要するものですが、だからこそ、熟達の満足感が味わえるのです。もし機械に対する妄信が続くならば、私たちはあまりにも不器用で、弱い者になり、神がくださった、生きた機械である自分の体の使い方を忘れてしまい、そのことで、自分に腹をたてるようになる日が、まちがいなくやってくるでしょう。」(ムハトマ・ガンジー)



「私は自由を求めるインド、そしてまた、そのために闘っているインドに心からの共感をおぼえますが、あなたの機械嫌いはちょっと気になります。要するに、機械というものが、世のため、人のために使われさえすれば、人間を奴隷の状態から解放し、労働時間を短縮し、それによって、知性の向上や生活のよろこびというものを増進するのに役立つはずなのです。」(チャールズ・チャップリン)

「パパラギはいろんなものをつくりだす。私たちにはとてもつくれない、とても理解のできないものばかりで、私たちの頭には、ただ重たい石としか思えない。それらの物は、まず私たちがほしいというようなものではない。機械、ここにこそ大きな力が潜んでいる。機械とはなにか、私の頭の力では説明するのがむずかしいが、このことだけは分かっている。機械が黒い石を食って力をつくるということ、人間にはとても出せないような力をだ。パパラギは努力して神になろうとする。だが神はなお、最大のパパラギの機械よりも大きく、強い。水も火もなお神につかえる。パパラギのだれひとりとして、月の動きを、風向きを、自分の思いままにきめられてものはない。そうである限り、パパラギのおこなう奇跡にたいした意味はない。彼らの奇跡には、かくされた不完全さがあり、機械は見張り番と監督がいなければ働こうとしない。そしてどの機械もそのうちに秘密の呪いを秘めている。というのは。たとえ機械がどんなものでもつくるとしても、そのとき、私たちのつくる手づくりのものにこめられている愛情を食ってしまうのだから。機械がつくったものは、私にとっては血の通わない、無情のものにすぎず、それは完成しても、その苦労について語ることもできず、微笑むことももない。それを両親に捧げて喜ばすこともできない。機械がなんでも即座につくりだすので、パパラギはどんなものにも愛情を持たなくなってしまった。それこそが機械の持つ大きな呪いなのである。愛なき奇跡をうけいれるために、パパラギは自分の心を機械に食わせなければならないのだ。」(エーリッヒ・ショイルマン「パパラギ」1920年)

「ツイアビは、現地語のまま眠っていたこの話を、ヨーロッパで発表したり、ましてや本にするつもりなどはまったくなかった。彼はただ、ポリネシアの自分の国の人びとのためにだけ、この話を考えた。私は彼の了承なしに、これをヨーロッパの読者に紹介したのである。なぜなら、深く大自然と結ばれているこのひとりの原住民の目が、いったいどのように私たちを、見ているかが、ただ興味深いだけでなく、そこから何かを学びとることは、私たち、白人、啓発された人間にとって非常に意義深いものであると信じたからである。私たちは、彼の目という、私たちにはもう絶対に持ち得ない視点を通して、私たち自身を経験する。彼の観察は、文明を狂信的に信じている人たちにとっては、無邪気、いやそれどころか、ばかげていて愚にもつかないように映るかもしれない。しかし、いくつかの言葉は、真の理性を持った人、人生をしっかりみつめる人びとを、深い思索と自己批判へ導くだろう。世界大戦によって、私たちヨーロッパ人は、人間そのものに対する不信感を持つにいたった。今こそもう一度、ものごとを調べなおし、私たちの文明は、果たして本当に私たちを理想へ向かわせるものであるかどうかを考え直さなければならない。」(エーリッヒ・ショイルマン「パパラギ」1920年)

「モモによくわからないことがありました。ごく最近はじまったばかりのことなのですが、子どもたちがそんなものを使ってもほんとうの遊びはできないようないろんなおもちゃを持ってくることが多くなったのです。たとえば、遠隔操作で走らせることのできる戦車ですが、これはそれ以上のことにはまるで役にたちません。あるいは、細長い先でぐるぐる円を描いて飛ぶ宇宙ロケット、これもそのほかのことには使えません。あるいは、目から火花をちらして歩いたり頭をまわしたりする小さなロボット、これもただそれだけのことです。もちろんこういうおもちゃは高価ですから、モモのともだちはひとつも持っていません。とりわけこまることは、こういうものはこまかなところまで、いたれりつくせりに完成されているため、子どもが自分で空想を働かせる余地がまったくないことです。ですから子どもは何時間もじっとすわったきり、ガタガタ、ギー、ブンブンとせわしなく動きまわるおもちゃのとりこになって、それでいてほんとうはたいくつしていて、ながめてばかりいます。けれど頭のほうはからっぽで、ちっとも働いていないのです。ですから、結局、子どもたちはむかしながらの遊びにまたもどることになります。二つ三つの木箱とか、やぶれかけたテーブルクロスとか、モグラがもりあげた土の山とか、ひとにぎりの小石とかがあれば十分で、あとはなんなりと空想の力でおぎなうことができるのです。」(ミヒャエル・エンデ「モモ」1973年)

→ダニエル・ライオンズ「iPad であなたはもっとバカになる」

「今日なにが起きるかわからない原っぱの楽しみ。廃校になった小学校の空間は、ちょうど「原っぱ」のように、人間にそれに対するかかわり方の自由を与える。原っぱとはつまり空き地である。原っぱが、子どもたちにとって、日常的な絶好の遊び場だったことは、とても意義深いことだ。子どもたちは、本能的に、原っぱを好んだ。それは野球をしにいく場所ではななかった。ドッヂボールをしに行く場所でもなかった、なにかの目的を持って行く場所ではなく、ともかくそこに行って、それからなにをして遊ぶかを決められる特別な場所だった。原っぱはそのままで楽しいのではない。そこでは、毎日のように新しい遊び方が開発されていた。カゼをひいて、二、三日いけなかったりすると、もうみんなが遊んでいるルールが分からなくなってしまった。子どもたちは、いくらでも、原っぱを使った新しい遊びをそこから引き出すことができた。原っぱの楽しみは、その場所での遊び方を発明する楽しみである、そこで今日なにが起きることになるかが、あらかじめわからないことの楽しみだった。それが人間の空間に対する関わり方の自由ということの意味だ。この自由は、別の意味で同じくらい楽しかった遊園地と対極にある。遊園地は演出されている。どういう楽しさを子どもが得られるか、それが最初に決められ、そこから逆算してつくられている。それもとても楽しいことには違いないければ、そこにはかかわり方の自由がきわめて少ない。ジェットコースターには、ジットコースターとしての遊び方以外が許されていない。ちょっと雑な気がするけれど、建築は「遊園地」と「原っぱ」の二種類にジャンルに分類できるのではないかと思う。あらかじめそこで行われることがわかっている遊園地と、そこで行われることでその中身がつくられていく原っぱの二種類である。ぼくがこの分類にもうすこしこだわりたいのは、現在において原っぱが失われつつあるからだ。普通には、いたれりつくせりは親切でいいことだと思われている。でも、それで確実に失われるのは、原っぱにみられるような空間と人間とのあいだの対等な関係である。しかし見回してみれば、状況はすでに「遊園地」にみられるように、空間が先回りして人の行為や感覚を拘束するのをよしとする風潮だろう。」(青木淳「原っぱと遊園地」2004年)
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by illcommonz | 2014-02-09 16:03
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「インターネットを使った新しい分散型・参加型学習活動が可能になっているこの先、教育のありかたが変わり、知的権威、文化的権威の源泉は取って代わられることになるだろう。1000人の学生を週二回、講義室に詰め込んで、終身在職権のある教授が体系化した凝縮された知識を受け取らせる従来のやり方は、意味を失っている。いまや大学の講義はデジタル化して記録し配布できる時代だ。知識の創造、消費、伝達が過激なまでに民主化されている。知識の権威が揺らいでる。しかし知識の質が下がっているのではないかという疑問もわく。知的権威がなくなったら、世界に関する知識が正しいことをどうやって証明するのだろう。大きな知性、ビッグマインドがすべて消えてしまった、集合的な思考はどのようなかたちで残るのだろう。半面の真理やうわさ、あてこすりがはびこり、世界は予見できないカオスに向かうのだろうか。」(ニコ・メレ「ビッグの終焉」2013年)

「電子メディアは、時間と場所の特別さを破壊する。テレビやラジオや電話は、かつて私的だった場所を、外部からアクセス可能なものにすることによって、公的な場所に変えてしまう。またカーステレオやウォークマンのようなパーソナルな音響システムは、公的な空間を私的な空間にする。そのようなメディアを通じて、いまや、いろんな場所で起きることが、私たちがいる至る場所で起きている。つまりそれは、私たちがもはや特別の場所にいるわけではないということである。つまり、かつては、まったく異なっていた場所のそのほとんどにテレビやラジオや電話があるため、いまやどこも類似した場所になっている。かつては特別な場所で手に入れる経験とそれに依存していたことが、電子メディアによって変えられてしまったのである。いまや、人がどこにいるかということは、その人が誰であるかということにあまり関係がない。なぜなら、人がどこにいるかということは、人が何を知り、何を経験しているかということと、いまやほとんど関係がなくなっているからだ。」(ジョシュア・メイロウィッツ「意味を失う場所;電子メディアが社会的行動におよぼす影響」)

「今日の労働者によって、コミュニケーションとソーシャルメディアは、彼らを仕事から解放すると同時に、仕事に縛りつけているように思われる。スマートフォンやワイヤレス接続があれば、どこにでも行くことができるが、どこに行っても変わらず仕事をし続けることになる。それが意味するのは、どこへ行こうがつねに仕事中であるということなのだ。メディア化は、労働と生活の区別をますますあいまいなものにしている主な原因なのである。」(アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート「叛乱」2012年)

「どんなものにも、その置き場所がある、そこに置きたまえ」という言葉ほど、新しいテクノロジーの精神から遠くはなれたものはない」(マーシャル・マクルーハン「メディア論」1964年)

「私たちは世界のどの地点とも連絡がとれ、世界のどこからでも情報の検索ができる電子時代の遊牧民である。電子のおかげで、私たちが世界中のどこにでも姿を現すことができることは有益で、しかも不可避であるが、危険な副作用の懸念もある。つまり、私たちには、テクノロジーの革新が社会、政治、文化にもたらす変化に適応する時間が与えられていないのである。生活を変え、新しい社会の習慣をつくりだす猶予が与えられないまま、その影響をもろにかぶってしまうのである。つまり、革新がもたらす変化に対処しようにも、私たちはつねに準備不足の状態に置かれる事になる。」(デリック・ドゥ・ケルコフ「電子時代の新たなリアリティを探求する文化の皮膚」1995年)

「インターネットの空間はニュートラルではない。そこには境界もなければ、安定もしておらず、統一されてもいない。それは生きていて、たえまなく動き、自立的なシステムであるかのようにふるまう。インターネットによって、私たちの時代遅れの政治意識は一掃されてしまうだろう。インターネットの到来によって、私たちは、私的であると同時に公的、個人的であると同時に集合的である最初のメディアを持つに至った。政治的には「集合知」という新しい秩序と社会行為にふさわしいシステムがどのようなものか、まだはっきりしていない。なんであれ、インターネットに君臨する秩序が、現実世界で君臨することになるだろう。その秩序が地球をのっとることのないように、いまできることを考えなければならない。」(デリック・ドゥ・ケルコフ「電子時代の新たなリアリティを探求する文化の皮膚」1995年)

事故を起こさないテクノロジーの発明はない。テクノロジーが発明されるたびに、特殊な事故が生み出される。」(ポール・ヴィリリオ)

「蒸気船や帆船を発明するとは難破を発明することであり、列車を発明するとは鉄道の脱線事故を発明することである。自家用自動車を発明するとは高速道路での玉突き事故を発明することなのである。飛行機や飛行船を離陸させるとは、空の惨事を、墜落事故を発明することなのだ。」(ポール・ヴィリリオ)

「環境は目にみえない。その基本的な原理、全体的な構造、そして、包括的なパターンを知覚することはむずかしい。」(マーシャル・マクルーハン「メディアはマッサージである」)

「文化も宗教もすべてテクノロジーの枠のなかにあります。私たちはテクノロジーを利用しているのではなく、私たちはテクノロジーのなかで生きているのです。それはすでに空気のような存在で、もはや意識されないのです」(ゴドフリー・レジオ「生活の質」)

「インチキで人をまるめこむ計算 とてもとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。それは時間です。時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、その時間にどんなことがあったからによって、一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ぎゃくにほんの一瞬と思えることもあるからです。なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。このことを誰よりもよく知っていたのは、灰色の男たちでした。彼らほど、一時間の値打ち、一分の値打ち、いや、たった一秒の値打ちさえ、よく知っているものはいませんでした。ただ彼らは、ちょうど吸血鬼が血の価値を知っているのとおなじに、彼らなりの時間の大事さを理解し、彼らなりの時間のあつかい方をしました。彼らは人間の時間にたいして、ある計画をくわだてていました。灰色の男たちは目立たないように大都会の人々の暮らしの中にしのびこんでいました。そして、一歩一歩だれでも気付かれずに、日ごとに深く食い込んで人間の財産に手を伸ばしていました。
「私は時間貯蓄銀行からきました。あなたは、あなたの人生を浪費しておいでで。あなたは自分の時間を無駄づかいしてます。倹約をはじめようという気持にはなりませんか。わたしどもは、時間貯蓄銀行は、あなたの時間をあずかっておくばかりじゃなく、利子も払うんです。時間の倹約のしかたくらいご存知でしょう。たとえば、仕事をさっさとやって、よけいなことはすっかりやめてしまうのです。ひとりのお客に一時間もかけないで、15分ですます。むだなおしゃべりはやめる。年寄りのお母さんと過ごす時間は半分にする。安心しておまかせください。これであなたは時間貯蓄銀行の新しい会員になられたわけです。あなたはいまや、ほんとうに近代的、現代的な人間のなかまに入られたのです。」 こう言うなり、灰色の男は灰色の自動車にのりこんんで、走り去りました。そのあとまもなく、きょうはじめての客がやってきました。フージー氏はぶすっとして客をあつかい、よけいなことは一切せず、ひとことも口をきかないで働きました。ほんとうに1時間ではなく、20分で仕上がってしまいました。それからはどの客にたいしてもそうでした。こうなると仕事はもうちっともたのしくありません。でもそんなことはどうでもいいのです。毎日毎日がますますはやく過ぎてゆくのに気がついて愕然とすることはあっても、そうすると、ますます時間を倹約するようになるだけでした。
 おなじことが、大都会のおおぜいの人に起こっていました。そして、いわゆる時間節約をはじめる人の数は日ごとにふえてゆきましあ。そしてその数がふえればふえるほど、本当はやりたくないが、そうするよりしかたないという人も、それに調子を合わせるようになりました。毎日毎日、ラジオもテレビも新聞も、時間のかからない新しい文明の利器のよさを強調し、ほめたたえました。そういう文明の利器こそ、人間が将来、ほんとうの生活ができるようになるための時間のゆとりを生んでくれるというのです。ビルの壁面にも、広告塔にも、ありとあらゆるバラ色の未来を描いたポスターがはりつけられました。
 時間節約こそ幸福への道、時間節約をしてこそ未来がある。きみの生活をゆたかにするため時間を節約しよう。
 けれども、現実はこれとはまるっきりちがいました。たしかに時間節約家たちは、いい服装はしていました。お金もよけいに稼ぎましたし、使うのもよけいです。けれど彼らは、ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。彼らは余暇の時間でさえ、すこしの無駄もなく使わなくてはと考えました。ですからその時間のうちにできるだけたくさんの娯楽をつめこうもうと、もうやたらとせわしなく遊ぶのです。だからもうたのしいお祭りであれ、厳粛な祭典でさえ、ほんとうのお祭りはできなくなりました。夢をみるなど、ほとんど犯罪も同然です。彼らがいちばん耐え難く思うようになったのは、しずけさでした。彼らは自分たちの生活がほんとうはどうにかなってしまったのを心のどこかで感じ取っていましたから、しずかになると不安でたまらないのです。ですから、しずけさがやってきそうになると、そうぞうしい音をたてます。けれでもそれは、子どもの遊び場のようなたのしげなさわぎではなく、きちがいじみた、ふゆかいな騒音です。この騒音は日ごとにはげしくなって、大都会にあふれるようになりました。時間をけちけちすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。自分たちの生活が日ごとにつめたくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。けれども、時間とはすなわち生活なのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそってしまうのです。
(ミヒャエル・エンデ「モモ」1973年)

「インターネットへのアクセスは基本的な権利であると、約80%の人が考えている。BBC World Serviceがこのような調査結果を発表した。この調査は世界26カ国で2万7000人の成人を対象に実施された。調査によると、インターネットを利用している回答者の87%は、ネットアクセスは「すべての人の基本的な権利」だと考えている。インターネットを利用していない回答者では、このように考えている人は71%だった。特に韓国、メキシコ、中国ではこの割合が高く、それぞれ96%、94%、87%だった。 またネットユーザーの多くは、インターネットがもたらした影響をポジティブに受け止めている。78%はネットがさらなる自由をもたらしたと考え、90%はネットをいい学習の場ととらえている。余暇にSNSを楽しんでいるという人は51%に上った。ネットユーザーのうち、ネットなしでは生きていけないという回答は44%に上った。特に日本はこの割合が高く、84%だった。メキシコ(81%)、ロシア(71%)がそれに続く。」(ITmediaニュース 2010年3月10日)

「私たちの周囲にはかつてないほど情報があふれ、そこから逃れることはできない。デスクの上にも、ポケットの中にも、カフェのテーブルにもコン ピュータがある今、情報はまるで空気に乗って私たちの周りを漂っているようだ。それなのに、自分がどんどんばかになっている気がしてならない。実際、平均すれば、われわれは上の世代より無知なのではないか。アップルストアに並ぶ長蛇の列や、歩きながら携帯電話をのぞきこむ人々。人類はゾンビになってしまった。「いや、非常に忙しいゾンビだ」という弁明が聞こえてきそうだ。メールを読み、ツイッターでつぶやきながら、他人のツイートに返信する。アプリをダウンロードし、写真をアップロードする。フェースブックを更新し、世界中が自分のことを気にしているような気になって、好きなものや嫌いなものを世界に向けて発信する。では、私たちがしていないことは?それは「考える」こと。情報を処理してはいるが、考えてはいない。2つは別物だ。要はデジタルツールを触りながら、ダラダラしているだけ。リンクをクリックしては、自己顕示欲の強い愚か者や評論家、広報やマーケティングの担当者らが垂れ流す無意味なゴミの激流をかき分けている。」(ダニエル・ライオンズ「iPad であなたはもっと馬鹿になる/デジタル機器やウェブに振り回されて人間は「忙しいソンビ」になった」)

「メディアに繋ぎとめられた者 かつて、メディアとの関係において政治的行動がおさえつけられていたのは、情報に十分にアクセスできないか、あるいは、自分の視点を伝達し、表現する手段がないというのが、主な原因のように思えた。けれども、私たちがより関心をもっているのは、今日の「メディアに繋ぎとめられた者」がこれとは正反対の問題に苦しんでいるということだ。これらの主体は、情報、コミュニケーション、表現の過剰によっておさえこまれている。多くの場合、わたしたちに必要なのは、情報やコミュニケーションではなく、思考に必要な沈黙である。それは実際に沈黙することではなく、言うに値する何かを持つことである。言い換えれば、政治的行動においてもっとも重要なのは、情報、コミュニケーション、表現の量ではなく、むしろその質なのである。」(アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート「叛乱」2012年)

「私がコンピュータを嫌うのはなぜか分かりますか?それはコンピュータにアフリカが十分はいってないからです。だから長時間使えないのです。私がなににむかついているかというと、自分の体をごくわずかしか使わないことにむかついているのです。ただそこに座っていることがあまりにも退屈なのです。こんなちいさなマウスをあてがわれ、操作に使うのは片手と眼だけで、これではいったい、身体のほかの部分はなにをすればよいのでしょう。そんなコンピュータを使いたがるアフリカ人はいませんよ。まるで監禁された気分がしますね。歴史というのはいつも、むかつく人間たちによって変えられてしまうのです。いまのコンピュータを面白がって使っているのは無気力な人間だけです。本当に効果的なコンピュータを作りたければ、健康的で活動的で、人生には他にやることがたくさんあるというような女性たちだけでグループをつくり、全権をゆだねるのがよいでしょう。」(ブライアンイーノ「アンビエントからアフリカへ」1995年)

「あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります。そのうちに電車の中で、その妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、ケイタイだらけになった時も、ウンザリして来ました。あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれにやぐらを押し続ける男たちへの感心も共感もあなたは無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具として、iナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。誰でも手に入るものは、たいしたものじゃないということなんです。本当に大切なものは、iナントカじゃ手に入らないんです。一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。 あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。」(宮崎駿)

「人間とチンパンジーの脳は大差ありません。石器時代の人間と同じです。知識という21世紀のソフトウェアを5万年前のハードウェアで動かしているのです。」(ジェーン・グドール)

「ロビン・イアン・マクドナルド・ダンバー(Robin Ian MacDonald Dunbar 1947年6月28日)はイギリスの人類学者、進化生物学者。専門は霊長類の行動。彼は「ダンバー数」の定式化でよく知られている。人間にとって、平均約150人(100-230人)が「それぞれと安定した関係を維持できる個体数の認知的上限」であると述べている。」(ウィキペディア)

「ここでもう一度、「ダンバー定数」について考えてみよう。それは個人が維持できる人間関係の限界数で、お互いに知り合いで、ほかの人の人間関係も把握できるような人の数だ。数十年にわたる文化人類学の研究で、この1000年間の文明を調べると、その数は常に150人と一定だった。だが、それは MySpace などのコミュニティ・サイトやソーシャル・ネットワーク・サービスが登場する前までの話だ。今ではインターネットがその何倍もの結びつきを維持する手伝いをしてくれる。では、シリコンチップは私たちがやりとりする評判の数を増やしたのだろうか?それとも「友人」の意味を希薄にしただけなのだろうか。どれもいい疑問だが、答えられるのは次の世代になるかもしれない。」(クリス・アンダーソン「フリー」2009年)
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by illcommonz | 2014-02-09 16:00
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「新しい電子テクノロジーがもたらした相互依存関係が、地球全体をひとつのムラに再創造させる」(マーシャル・マクルーハン「メディアはマッサージである」1964年)

→グローバル・ヴィレッジ

[ヴィレッジの住民たちの証言]

「スタジオミュージシャンとして一生やっていくんだと思っていた僕の人生は、パソコンを購入して1年足らずで大きく変わりました。パソコンがなかったら僕は文筆家になることも、大学で教えることもなかったでしょう。でも、すごく矛盾しているかもしれないけれど、僕はパソコンを礼賛しているわけではない。むしろその逆です。パソコンやインターネットは麻薬や覚醒剤と同じくらい恐ろしく害のあるものだと思っているんです。気づかない人が多いようだけど、パソコンが普及してから、人々の心性は大きく変わりました。パソコンはすべての人を批評家にします。何かにっけてケチをつけ、批判し、検討を重ねさせる。消費者は商品に堂々とクレームをつけ、権利を主張するようになりました。たとえば、生意気なアイドルがいたら、ネットで袋だたきして引退に追い込むことだってできる。パソコンの前に座っているだけで、世界中の情報が手に入るので、この世を征服したような万能感がみなぎるけれど、実際は違う。万能感が無力感に変わった時、それを修正するために、「世の中を破壊してやる」、「誰でもいいから殺してやる」という発想に向かう人だっているんです。ブログで今日食べたものを写真ごとアップしなければ眠れない人が大勢いる。「ホントはヒレかつを食べたいんだけど、前回アップしちゃったので今日はロースを食べてアップします」なんて、どう考えてもおかしいですよね。ネットで"つながっている感"があるなんていうけれど、そんなのウソ。白己愛と他者承認をブログで毎日確認する社会ってどうなんでしょう。パソコンの恩恵を散々受けておいて、"裏切り者め"と言われるかもしれない。でも僕はパソコンのもつ万能感が恐ろしい。誰もそのことを認めないけれど、パソコンとインターネットが普及して、世の中がガラッと変わりました。みなさんはどう変わりましたか?」(菊池成孔)

「ところで、携帯電話がもたらした功罪は何だと思う?コミュニケーションが希薄になったとか、マナーが悪化したとかいった類の携帯批判はナンセンス。これらは新しいテクノロジーが出てきた時に必ず現れる、本能的な防衛反応のひとつにすぎないように見える。それよりももっと、重要な変化が起きている。携帯はひとを傷つける新しい道具としてはたらいている。知らず知らずの内に。たとえば、歯医者の待合室で待っている時、おれの他に同い年くらいのカジュアルなかっこうの女の子が待っていたとする。当然、意識しあう。気まずい。どうしたものか。壁のポスターに目を移すか、置いてある雑誌に手を伸ばすか。緊張にあふれる待合室。その時。「カチャッ」。その子は携帯の画面を開き、のぞき込んだ。何が起きたのだろうか? 見たくもないポスターを凝視したり、読みたくもない雑誌に手を伸ばすのと、携帯の画面をながめるのと何が違うのか。大きく違う。その子が携帯の画面をながめることによって、おれは「はずされた」のだ。彼女はおれではない誰かとの親密なあいだがらの間に入り込み、おれは部外者になった。携帯をながめるのは自分の「仲間」を確認することであり、同時に、時間無制限で発揮される仲間への高い信頼とひきかえに、仲間以外の人間への無関心を表現する。彼女はいつでも彼女を待っているであろう仲間のもとに携帯を通じて駆け寄ることで、おれに対して、「わたしはあんたのことは意識していないよ」という無関心をあらわしてみせた。そして、待合室で待っている「おれたち」という接近した関係は崩壊。注意しよう。このような「仲間はずれ」は、ポスターを凝視したり雑誌を読み始める場合には起こらないということに。つまり、携帯は「仲間はずれ」というかたちで他人への「無関心をひっそりと表現する新しい手段」なのだ。仕事の休憩時間や学校の休み時間、席を立つか立たないかのその瞬間、誰もが携帯を取り出し、のぞき込む。いつでもどこでも帰れる居場所としての「仲間」と連帯しているという実感の確実さを携帯という道具に託しながら、他方で、同じ部屋に居る同僚をひそかに「仲間はずれ」にする。知らず知らずの内に、無垢な笑顔のなかに、そんな傷つけ合いがある。いたるところで、そんな場面によって、誰もがきっと少しずつ傷ついている。ただ、そんなみじめな自分を認めたくなくて、小さなことになんてまるで気にしない「デカいこころ」をもっているふりをしているだけ。ポーカーフェイスの見せ付けあいで辛うじて保たれる「自己」。そしてまた、大事な「仲間」のいる携帯の中に入り込み、同じ部屋に居る周りの人間を「風景」にする。他人との接触を避けて目をそらしあうのは、しかし、他人を過剰に意識しているからという逆接があるのは誰の目にも明らか。電車の中で知らんぷりを続けている最中、独り言を言う酔っ払いが入ってきたり、いがみあいなどが起きた時、そんな、他人の存在が特に際立ってくる時にこそ、ますますぎこちなく目を反らし合うのはその証拠。そこでの問題は、酔っ払いやいがみ合いをしている人達が恐いということではない。そうではなく、このような例外状況に下手に反応して、自分がヘマをしないこと、自分が都合の悪い状況に陥るのを防ぐこと。最初から知らないふりをしていれば(知らないわけがないことは自分が一番よくわかっているのに)、失敗することもないのだから。自分を安全圏の中で確信する為に他人への無関心を見せつけるという
ニホンジンのこの強い傾向。これが携帯によってさらに強化されているように見える。目を反らすのに疲れたならば、携帯をのぞきこめさえすればいいのだ。(waterr「無関心・猥雑さ・けなし合いの共同体―ニホンジンをながめてみると」)

「わたしたちは、新しいメディアのなかに、古いもののかたちをおしこめる。この悪い習慣はなかなかなおらない」(マーシャル・マクルーハン「メディアはマッサージである」1964年)

「あなたは今日からiPhoneの所有権を持つことができます。責任感のある利口な13歳なので、このプレゼントはあなたに相応しいものです。でも、このプレゼントと受けとると同時にルールや規則が付いてきます。以下の使用契約をゆっくり読んでください。私の親としての仕事も分かって欲しいのです。健康で豊かな人間性を持ち、現代のテクノロジーをうまく活用していける大人に、あなたを育てなければならないのです。以下の規則を守ることができなかった場合、あなたのiPhoneノ所有権も無くなります。あなたが大好きでたまりません。あなたと何百万ものメッセージ交換をするのが楽しみです。

⑦このテクノロジーを使って嘘をついたり、人を馬鹿にしたりしないこと。人を傷つけるような会話に参加しないこと。人のためになることを第一に考え、喧嘩に参加しないこと。
⑧人に面と向かって言えないようなことをこの携帯を使ってSMSやメールでしないこと。
⑨友達の親の前で言えないようなことをSMSやメールでしないこと。自己規制してください。
 この条件ニ合意してくれることを願っています。ここでリストにあげた、ほとんどの条件は、人生をうまく生きるための条件にもそのままあてはまるものです。あなたは常に激しく変わってゆく世の中で成長しています。とてもエキサイティングで、興味深い体験だと思います。できるだけシンプルに物事を考えて実行してください。どんな機械やガジェットよりも、自分のパワフルな考え方と大きな心を信じてください。あなたが大好きです。あなたの素晴らしいiPhoneを楽しんでください。母より。」(「13歳の息子へ、新しいiPhoneと使用契約書です。愛を込めて。母より」

[金融テクノロジー]


イルコモンズ「マネーカッツィ」(2009年)

「パパラギとは白人のこと、見知らぬ人のこと。まるい金属と重たい神、彼らがお金とよんでいるもの、これが彼らの神だ。すべてのパパラギは、寝ているあいだも、お金のことを考えている。まるい金属と重たい紙。パパラギの国ではお金なしに生きていけない。お金がなければ、飢えも渇きもしずめることはできない。「働け、そうすればお金がもらえる」というのがヨーロッパのおきてである。このおきてには不公平がある。お金をたくさん持っている人が、かならずしもたくさん働くわけではない、ということだ。それはこういうふうにして起こる。もしひとりのパパラギが、たくさんお金をもうけたとする。たべものや小屋を手にいれても、まだ余るとする。すると彼はそのお金で、彼の兄弟たちをはたらかせる。自分の手がよごれる仕事、苦しい仕事を兄弟にさせる。人びとはこの人のことを「お金持ち」と呼ぶ。みんなは彼をうらやみ、お世辞をのべたてる。つまりパパラギの世界で、ひとりの人間の重さを量るのは、精神の気高さでもなく、勇気でもなく、心もかがやきでもなく、一日にどのくらいたくさんのお金をつくり、どのくらいたくさんのお金を頑丈な鉄の箱にしまっているかなのである。彼らはそのお金をしっかり守られた場所に運びこむ。すると、お金そのものが、彼らのために働いてくれるのだ。魔法でもないのに、どうしてそんなことができるのか、私にはどうしてもわからない。けれども本当にそうなのだ。たとえ眠っていても、この人はますますお金持ちになる。もしこの人に「そんなにたくさんのお金をどうするんですか。着たり、飢えや渇きをしずめるほか。この世であなたに何ができますか」と尋ねたとする。しかし、答えはない。あるいは彼はこう言うかもしれない。「もっとお金がほしいのだ。もっともっともっとたくさん」。やがておまえにも分かるだろう。お金が彼を病気にしたことが、彼がお金にとり憑かれていることが。「富、つまりお金をたくさんもっていることが幸福のもとである」とパパラギはいう。また「たくさんの富を持つ国、それはもっとも幸せな国ある」とも。わが兄弟たちよ、わたしたちはみな貧しい。太陽の下、私たちの国ほど貧しい国はない。私たちのところには、箱いっぱいのまるい金属もなければ、重たい紙もない。パパラギの考えからいえば、私たちはみじめな物乞いなのだ。しかし、おまえたちの目を金持ちの紳士の目と比べるなら、彼らの目はかすみ、しぼみ、疲れているが、おまえたちの目は、大いなる光のように輝いている。よろこびに、力に、いのちに、そして、健康にあふれ、輝いている。おまえたちの目は、パパラギの国では子どもだけしか持っていない。もてなしをしたから、といって何かを要求したり、何かをしてやったから、といってアローファ(交換品)をほしがるような人間を、私たちは軽蔑する、という尊いならわしを、私たちは大切にしよう。ひとりの人間が、他の人たちよりずっとたくさんの物を持つとか、ひとりがたくさん持っていて、他の人は無一物、というようなことを私たちは許さない。そのならわしを大切にしよう。そうすれば私たちは、隣人が不幸を嘆いているのに、それでも幸せで、ほがらかにしていられる、あのパパラギのような心にならずにすむ。私たちはお金から身をまもろう。私はおまえたちに告げよう。お金で人はたのしくなったり、しあわせになったりすることはない。それどころか、人のこころを、人間のすべてを、悪しきいざこざのなかへ引き込んでしまうということを。そしてお金は、ひとりの人間をも救うことはできない。ひとりも人間をも、たのしく、強く、幸せにすることはできないのだと。」

「世界の存在を信じることが、実は私たちに最も欠けていることなのです。私たちは完全に世界を見失ってしまいました。私たちは世界を奪われてしまったのです。世界の存在を信じる、というのは、どんなにささいなことでもかまわないので、とにかく管理の手を逃れる「出来事」をおこすことです。あるいは、どんなに面積や体積が小さくてもかまわないので、とにかく新しい「空間」を生みだすことです。私たちの抵抗の力はどれくらいのものなのか、あるいは逆に、管理に服従するとはどういうことかは、具体的な行動のレヴェルで判断されます。創造と人民が同時に必要なのです。」(ジル・ドゥルーズ)

「シチュアシオニストは、現代の「スペクタクル」についてくりかえし論じてきた。このスペクタクルには、広告看板から、アート、サッカー、ラジオ、テレビまであらゆるものががふくまれる。かつては誰もが自分で直接体験してきたことが、いまは別の誰かによるショーになってしまっている。生きた体験は、メディアがつくるイベントやあらかじめパッケージ化された経験にとってかわられてしまっている。シチュアシオニストは「人さらい」という言葉をつかい、スペクタクルが僕らの「リアルな生」をどこかに連れ去ってしまっているのだという。」(カレ・ラスン「カルチャージャム」)

「世界にはさまざまな問題があり、遠い国で内戦があり、飢餓があり、苦しみがあることを私たちは知っていますが、私という小さな存在が、いったいそのような広大な社会とどのように関われるだろうか?と思わず立ち止まってしまうかも知れません。しかし、社会は私たちひとりひとりのこの小さな現実と無関係に、どこか別の場所にあるのではありません。」(諏訪敦彦「式辞」2013年)

[原子力テクノロジー]

ディズニー「魔法使いの弟子」(1940年)

「みなさんは「魔法使いの弟子」という古い寓話をご存知でしょうか。今日でもディズニーのアニメーションになりました。ぬけめのない弟子は、老いた魔法使いがでかけたときに、主人の呪文をくりかえして、バケツやほうきに、自分の仕事をやらせてなまけていました。ところがまずいことに、自動エネルギーで疲れを知らずに仕事をするバケツやほうきの大群をうみだす術は知っていたのですが、その働きをおしまいにする呪文をマスターしていなかったので、自動のバケツが主人の家にぶちまける大量の水のなかで、あっぷあっぷともがくことになったのです。これは「魔法使いの弟子」は、写真から美術作品の複製、自動車から原子爆弾にいたる私たちのあらゆる活動にあてはまります。それはまるでブレーキもハンドルもなく、アクセルしかついてない自動車を発明したようなもので、唯一の操作方法は、機械を速く働かせることなのです。しばらくのあいだは、まっすぐの道なら安全だと思い、スピードが増すにつれて輝かしい解放感すら覚えるでしょうが、やがて減速したり、方向を変えたり、バックしようと思った時には、コントロールの準備がなにもないということがわかり、唯一の可能性は、「もっと速く、もっと速く」しかないことに気付くでしょう。もうお分かりにように、機械は大量の消費と破壊を目的とする戦争においてこそ存分に、効果的に稼働するものなのです」(ルイス・マンフォード「芸術と技術」1952年)


ディズニー「わが友、原子力」(1954年)

「福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?理由は簡単です。「効率」です。原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。」(村上春樹)

「1:高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。
2:可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。
3:充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。」(ウィキペディア「クラークの三法則」

「魔法はかならず解ける」(岡崎京子「ヘルタースケルター」)

「夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしヒューマニティは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。」(村上春樹)
 「やりたくないことは無理にやることはない。自分にできないことは他人に任せておけばいい。小さい頃から私はそう考えていました。自分の好きなことをやる。そのために人は生まれてきたのだと私は思っています。やりがいだとか、充実感といった言葉をよく耳にしますが、結局は自分が好きなことにしか、そういうものは見つからないような気がします。やりたいことが見つからないと言う人がいますが、まずは自分が好きなことは何かを考えること。小さい頃に熱中したものを思い出すんです。ただし、好きだからといって成功するわけじゃない。いくら情熱を傾けて努力をしても報われない人はたくさんいます。努力は人を裏切るということも知っておくことです。それでも、好きなことに情熱を傾けている問は、きっと幸せの空気が漂っているものです。私は自分が幸福だと思っています。好きなことに情熱を注いで、人生を生き切ること。うまくいく時もあれば、うまくいかない時もある。そんな時に、あたふたと騒がないほうがいい。幸福だの不幸だのといちいち口に出さないほうがいい。人生にはいろんなことが起こって当たり前。それらに一喜一憂するのではなく、放っておくことです。人生をへたにいじくりまわしたところで、何の解決にもなりません。起きてしまった不幸はもうどうしようなもない。ならば自然の流れに身を委ねてしまったほうがいい。しょせん人問の力ではどうしようもないこともあるものです。ラバウルの人たちは実にわかりやすい人生を送っています。神様から与えられた人生を決していじくり回したりしません。だから、幸せの空気に包まれているのでしょう。」(水木しげる「人生を、いじくり回してはいけない」2005年)
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by illcommonz | 2014-02-09 15:01
▼小田マサノリ 集中講義「メディアと芸術」
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▼小田マサノリ 集中講義「メディアと芸術」
[日時] 2014年2月6日~10日(5日間) 13:15-18:30(285分)
[場所] 大分・立命館アジア太平洋大学F106教室

[科目名] メディアと芸術
[担当教員名] 小田マサノリ
[履修の目安]
「この講義では、わたしたちの身のまわりにあるさまざまな「メディア」(「芸術」も「メディア」です)を、人間が造りだした「テクノロジー」としてとらえ、近代文明批評、メディア論、文化人類学、文芸批評、美術批評、文化研究、映像論、IT批評など、複数の学問領域にまたがるハイブリッドな視点から考えます。専門性にとらわれない、人間についての幅広い関心と興味を持った受講生の履修を望みます。

[授業のねらい]
「テクノロジー文明時代の黙示録」ともいえる「カッツィ」三部作を制作したゴドフリー・レジオは、「わたしたちはテクノロジーのなかに住んでいるのだ」といいます。実際、現代に生まれ、現代に生きている、わたしたちは、もはやテクノロジーなしに生きられないと考え、いまや「道具」ではなく「環境」となったテクノロジーのなかで人生を送り、その「進化」が人間の幸福をもたらすと考えています。しかし、ほんとうにそうでしょうか?「時代のアンテナ」である芸術家や思想家たちは、テクノロジーと人間の関係について敏感に反応し、多くの警句や表現を残してきました。とりわけ近代に、それまでになかった新しいテクノロジーが登場してきたとき、それ以前の社会や暮らしを記憶している彼/女らは、それによってどんな変化が起き、またどんな変化が起きるかを予見する文芸作品(ファンタジーや童話)や映画(アートフィルムやドキュメンタリーやSF)を残しました。また、テクノロジーがグローバル化する以前の、テクノロジーをもたない伝統的社会から語られるそれは、「もはやわたしたちが決して持ち得ない視点」(エーリッヒ・ショイルマン)から、私たちのテクノロジーとの関わりを相対化してみせてくれるものです。この講義では、近代から現代までの作家、芸術家、思想家たちの作品や思索をとりあげながら、私たちの生き方を問い直し、メディア/テクノロジーと人間との適正な関係について考えます。

[到達目標]
この講義が到達目標とするのは、メディア/テクノロジーを否定したり、あるいは、それが持っている「あやうさ」を警戒するあまり「テクノフォビア(テクノロジー嫌い)」になることではありません。過去から現在の多くの芸術や文芸作品、そしてそこにこめられた思索にふれることを通じて、個々のテクノロジーの発明とその普及によって「ひらかれるもの」や「失われるもの」「よみがえるもの」や「ひっくりかえるもの」(「授業方法」の項を参照してください)をみきわめ、「持続可能」で「共存可能」な適正なテクノロジーとはなにか(あるいは、どれか)を問う視点と感性を身につけ、実際の自分の生活のなかで、それを選びとり、あるいは、組み合わせてゆく実践的な態度、つまり「オルタナティヴなテクノ・リテラシー」の獲得を目標としています。

[授業方法]
「メディア論」の先駆であるマクルーハンの思索は、文化人類学者エドワード・ホールの次の考えを拡張したものです。「かつて人間が自分の身体を使って行っていたことのほとんどが、今日では「拡張活動」によって行われている。武器の進化は、こぶしと歯にはじまり、原子爆弾で終わる。メガネ、テレビ、電話、時空を超えて声を伝える書物などは、そうした物質的拡張の例である」。マクルーハンは「車輪は足の拡張であり、本は目の拡張であり、衣服は皮膚の拡張であり、電子回路は神経の拡張である」とし、メディア/テクノロジーが、人間の意識や感覚、そして社会のあり方さえを変えてしまうという点に注目しました。そして死後、エリック・マクルーハンとの共著として公刊された本では、「拡張」だけでなく、さまざまなメディア/テクノロジーが「強化させるもの」「衰退させるもの」「回復させるもの」「反転させるもの」に注目し、メディアの持つ特性を精査(プローブ)するための図式を編み出し、それを「テトラッド」と名づけました。

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○○を強化する/○○に反転にする/○○を回復させる/○○を衰退させる
【マクルーハンのテトラッド】

この講義では、さまざまな作家や芸術家、思想家たちの作品や思索にあたりながら、二〇世紀から現在までのメディアを、この図式にあてはめて、それが人間や社会に与えた変化について考えてゆきます。

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[授業でとりあげる予定の人名と事項]
ニコ・メレ
クリス・アンダーソン
ロビン・ダンバー
ダニエル・ライオンズ
ビル・マッキベン
ジョン・ペリー・バーロウ
カービー・ファーガソン
デヴィッド・ディヒーリ
カレル・チャペック
ヨゼフ・チャペック
ミヒャエル・エンデ
アンドレアス・ジョンセン
ヴァルター・ベンヤミン
エルンスト・シューマッハ
ルイス・マンフォード
アルタヴァスト・ペレシャン
モーリス・ルメートル
ギー・ドゥボール
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エリック・マクルーハン
マーシャル・マクルーハン
クエンティン・フィオーレ
ウィリアム・モリス
デリック・ドゥ・ケルコフ
シャンカール
ムハトマ・ガンジー
インプローヴ・エヴリホェア
アントニオ・ネグリ
マイケル・ハート
ジャネル・ホフマン
チャールズ・チャップリン
ゴドフリー・レジオ
リチャード・セラ
ヨーゼフ・ボイス
ポール・ヴィリリオ
チャールズ・イームズ
レイ・イームズ
ジョシュア・メイロウィッツ
ウォルト・ディズニー
アベル・ガンス
ジョルジュ・メリエス
クリス・カニンガム
エドワード・ホール
エーリッヒ・ショイルマン
ジャミー・ユイス
アンドリュー・ニコル
スタンリー・キューブリック
アーサー・C・クラーク
リドリー・スコット
フランク・ヘルツ
エドワード・マイブリッジ
リュミエール兄弟
刀根康尚
宮崎駿
小沢健二
宮澤賢治
青木淳
岡本太郎
寺山修司
竹内好太
津田大介
三井秀樹
オーソン・ウェルズ
アルビン・トフラー
ナム・ジュン・パイク
マルセル・デュシシャン
オープンリール・アンサンブル
カールステン・ニコライ
ジャン・リュック・ゴダール
スタン・ブラッケージ
ペンドゥラム・クワイヤ
アダム・マイヤー
レニ・リーフェンシュテール
ザ・レジデンツ
クラフトワーク
アトミックサイト

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テトラッド
ラディカル・コネクティヴィティ
メディアに繋ぎとめられた者
メディアはマッサージである
CMC(コンピュター・メディエイテッド・コミュニケーション)
MOOC
TED
AGK
金融テクノロジー
事故の博物館
EWASTE
ダンバー定数
デザイナーベイビー
VR(ヴァーチャル・リアリティ)
AR(オーグメンテッド・リアリティ)
CD-ROM
テクノフォビア
テクノフィル
ノモフォビア
テクノストレス
フランケンフード
グローバル・ヴィレッジ
サイバースペース独立宣言
グリッチ・ミュージック
サーキット・ベンディング
ロボット
スペクタクル社会
メディア社会
レプリカント
遺伝子差別
プロパガンダ映画
サブリミナル
フューチャーショック
グローバル・ヴィレッジ
ダイアルアップ接続
万国博覧会
携帯電話
スマートフォン
1984
グーグルグラス
グッドモーニング・ミスターオーウェル
フェイスブック
ツイッター
ソーシャルネットワーク
ICC
文化庁メディア芸術祭
山口情報芸術センター
ゼゼヒヒ
マニュファクチュアリング・コンセント
軍事ロボット
魔法使いの弟子
原っぱと遊園地

「民族学とは、未開社会という特殊な対象によって定義される専門職ではなく、いわば、ひとつのものの考え方であり、自分の(メディア)社会に対して距離をとるならば、私たちもまた自分の社会の民族学者になるのである」モーリス・メルロ=ポンティ (※( )内の語句は引用者による)
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by illcommonz | 2014-02-08 00:40